<第90回>インタビュー取材について(07.01.10)

 振り返れば、昨年はいろいろな人にインタビューをした。ザッと思い浮かぶだけでも永源遙、馳浩、天龍源一郎、前田日明、三沢光晴、秋山準、丸藤正道、志賀賢太郎、武藤敬司、坂口征二、竹田勝司元ジャパン・プロレス会長、ミラノコレクション、佐々木貴…。秋山&田上、小島&ハンセン、藤田&日高の対談もやったっけ。今年に入ってからも、すでにSUWA、森嶋猛にインタビューしている。

 インタビューというのは漠然と話を聞いているわけではない。かといって、こちらに意図があって、それに沿って喋らせようとしても面白くない。一番面白くないのはストーリーラインに乗ってのインタビュー。これでは単なる大会の宣伝になってしまう。

 もちろん、インタビュー取材を依頼される時には「××というテーマで」という注文がつくが、私の場合は、それは最低限押さえるにしても、あとはインタビューされる側のプロレス観だったり、人生観だったり、素の顔が出るように心がけている。誰も上っ面の言葉は聞きたくないはず。素の部分に触れるのは聞き手側も楽しいものなのだ。

 そのためには、どんな話題になってもいいように、その人についての下調べは十分にしておくし、原稿にする時には、読みづらくない程度に、その人の口調を再現して臨場感を出すようにしている。

 ちなみに馬場&猪木の両巨頭、鶴田、藤波、長州、天龍の俺たちの時代、三沢、川田、田上、小橋、秋山の四天王プラス1、佐山、前田、田にインタビューしたことは財産。その一方で、全日本系の取材が多かっただけに三銃士で単独インタビューしたことがあるのは武藤だけだ。橋本真也はインタビューする機会がないまま逝ってしまった。

 そう考えると蝶野、高山、鈴木みのるなど、ビッグネームでもインタビューしたことがない人は結構いる。果たして、今年は何人の選手にインタビューできるのか楽しみだ!

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<第89回>2007年の全日本プロレス(07.01.3)

 全日本の1月2日&3日の後楽園ホールにおける正月興行2連戦はいずれも大盛況だった。1月4日に新日本と共催する東京ドームがあるため、心配されていたが、全日本ファンは全日本を楽しむ。固定ファンが付いていることを証明した。

 去年の暮れ、週刊ゴングの取材で武藤にインタビューした時に「全日本は明るいですよ、絶対に!来年は飛躍する年だと思ってますわ!」という自信満々の答えが返ってきたが、それも頷けるもの。

 全日本の強味はフリーの選手を導入しながらも、すべて武藤ワールドに包含し、独自の世界を作っていること。2月17日の両国は独自路線でやるというが、早くも三冠王者の鈴木に小島、諏訪魔、ケアが絡んできているし、復帰した健介も黙っていないだろう。そして世界ジュニアは中嶋が満を持して近藤に挑戦することが決定した。東京ドームと並行して、ちゃんと全日本内の動きがあるのだ。

 そんな全日本で、今年の注目は諏訪魔。1・3後楽園の6人タッグのスタートで武藤と激突したが、あのグランドが得意な武藤を圧倒したのには、正直ビックリした。ブードゥーというヒール・ユニットに身を置いて1年、試合の駆け引きも実力も着実に向上している。全日本のファンももちろん諏訪魔の"強さ"を十分に認識しているだけに、何かのきっかけで一気にブレイクしそうな予感がする。


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<第88回>プロレス大賞授賞式で思ったこと(06.12.27)

 12月25日、赤坂プリンスホテルで2006年度プロレス大賞受賞パーティが行なわれた。それにしても今年はユニークなメンバーが揃った。MVP=鈴木みのる、最優秀タッグチーム賞=ブードゥー・マーダーズ、新人賞=HG、話題賞=メカマミーなど、アクのあるレスラーがズラリ。そんな中で受賞者を代表しての鈴木の挨拶は立派だった。

 自らの選考過程で品格に欠ける、ベロを出してプロレスをやっているだけ、どこに行ってもファイトは同じ…などなどの批判意見が出たことにチクリチクリと嫌味を言いつつ"世界一性格の悪い男"のキャラクターを守る鈴木節を披露しつつも、 「お前なんかプロレスラーじゃねぇ、インディーじゃねぇか、所詮ジュニアだろと言われている人間が今、ここにいる。そうした連中が今年のプロレス界を面白くしたという事実は知ってほしい」 というような挨拶をした。それはしっかりと受賞者全員を思うMVPの人間にふさわしい挨拶だったと私は思う。だから「俺の挨拶、どうだった?」と聞かれた時に「凄く素直ないい挨拶だったと思うよ」と答えた。

 以前、このコラムで私は"今は職人の時代"と書いたが、バックボーンに関係なく、チケット代を払っても惜しくないレスラーが評価される時代になったと思う。強いだけでは駄目だし、もちろん面白おかしくてもプロレス自体がちゃんとしていなければ認められない。レスラーにとっては体も頭もフル回転させなければいけない時代だ。

 鈴木みのるはこうも言っていた。 「賞を狙うレスラーは選考委員に向かってプロレスをやってりゃいい。俺は、俺が面白いだろうなあと思うことを、毎日会場に来るファンに向かってやる。俺を見た人が面白いって思ってくれればそれでいいし、俺のことを嫌だなって思うなら、それでもいい」。

 その精神は、かつて私が夢中になって追いかけた天龍革命に通じるものがある。

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<第87回>2007年のテーマは記憶との闘い(06.12.20)

 週刊ゴングの今週号の巻頭カラーで武藤敬司に久々にインタビューしたが、面白いことを言っていた。それは「今、三銃士&四天王の時代だよ」。そして1・4東京ドームで蝶野と組んでテンコジと闘うことについては、 「テンコジはキツイぞ、この武藤敬司の光り方を消すのは。俺、あの空間で映えちゃうからなあ」。

 いかにも武藤らしい言葉だが、それはかつて自分自身が馬場&猪木の残像と闘ってきたからこそ。当時の武藤の口癖は「記憶には勝てねぇよ」。つまりプロレス・ファンが馬場&猪木の試合と自分の青春をダブらせてきた年月には勝てないということである。プロレスは記憶のスポーツでもあるから、ただ単に試合で勝ったとしても超えたことにならないのだ。

 だから丸藤も三沢超えを達成できなかった。12月10日、日本武道館に鳴り響いた三沢コール。誰しもが世代交代を願っているはずなのに、いざそれに直面すると三沢の名前を叫んでしまうのである。

「だって残してきた作品が違うからなあ」と武藤。これまた正解である。いつしか馬場&猪木の影が消え、今は武藤、蝶野、三沢らが真のトップに立っているのだ。

 2007年…若いレスラーは、こうしたレジェンドたち、ファンの心にある記憶と闘わなければならない。これに勝つには、よっぽどインパクトのある試合が必要。その意味で1・4東京ドームでの注目は、新世代によるIWGP戦=棚橋VS太陽ケアだ。ハッキリ言って、今のところ勝ち目はないが、ここで彼らが少しでも新しい時代のプロレスを主張してくれることを願う。


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<第86回>三沢光晴の魅力とは(06.12.13)

 12月10日のノア日本武道館。三沢への声援は凄まじいものがあった。シチュエーションとしては06年最後に27歳の王者・丸藤が師匠の三沢超えを果たして世代交代を達成し、07年につなぐというものだったが、ファンは入場前から三沢に大コールを浴びせ、何と三沢が王座返り咲き。その瞬間も大コールが爆発した。

 この現象は何なのだろうか? 本当のところ、プロレス・ファンは新時代到来を期待しているはず。だが、それが現実になろうと逆の反応を起こしてしまうのだ。これはどうしようもない。丸藤と三沢を比べると、ファンは三沢と歩んできた時間の方がはるかに長いのである。ファンにとって、三沢は青春の1ページになっているのだ。「三沢が初めて三冠王者になった92年の夏、俺はこうだった…」などと、自分の青春とダブらせてしまう。武藤が言う「思い出には勝てねぇよ!」は正解である。その思い出を吹っ飛ばすほどのインパクトを残してこそ、世代交代は成り立つのである。

 もうひとつ違う見方をすれば、ファンはすでに丸藤の方が上であるという前提に立っていたと考えることもできる。だからこそ、三沢に今も健在であってほしいという祈りのような大コールという解釈だ。

 いずれにせよ、もはや三沢は全盛期を過ぎている。腹がポッコリと出た44歳のレスラーだ。だが、私はそこに魅力を感じる。それは私が三沢より1歳上の45歳だからかもしれないが、たとえ腹が出ても、スピードが落ちても、そこに味が出ているのだ。そして三沢のいいところは「俺はまだまだ!」とヘンに気張らないところ。「だって歳なんだもん!」と平気で言えるところだ。今回、丸藤に勝っても時代を守ったという感覚はなく、むしろ「ああ、これで任せられるなって思ったから、ヘンな責任感を持たずにやっていける」と思っているところも肩に力が入ってなくていい。

 いつも淡々としていて自然体だが、気持ちだけは強く持っている。これは見習っていきたい。

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<第85回>初心に戻る時(06.12.6)

 2004年9月15日をもって日本スポーツ出版社を退社した私が、フリーとして活動をスタートさせたのは同年12月4日、ノアの横浜文化体育館大会終了後だった。個人的に持っていたネタの"天龍、ノア参戦!"を急遽、週刊ゴングの巻頭記事として書くことになったからである。天龍が05年にノアに上がることは秋頃から知ってはいたものの、この横浜でその動きが公になるとは思っていなかった。こんな形で仕事を始めるとは、運命の巡り会わせを感じざるを得なかった。

 そんなこともあって、12月は自然に気が引き締まる。あれから2年経って、どうにか仕事も軌道に乗ってきた。当初はゴングとGAORA全日本プロレス中継の解説しかなかったが、徐々に仕事が広がって、その他の紙媒体、モバイル系、テレビなどなど、今年は13社の仕事をさせて頂いた。謙虚にありがたいことだと思っている。

 会場に行き、選手の取材をし、記事を書く。インタビューをする。オファーに応じてコラムを書く。昔の写真を探して歴史物の特集を作る。テレビで喋る。18歳でこの世界に入ったが、いつまで経っても勉強だ。

 ひとつひとつの仕事に誠意を持って取り組み、自分の足で立って歩く。いつまでもそんな自分でありたいと思う。


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<第84回>ハル薗田さんが逝って19年…(06.11.29)

 今から19年前の1987年11月28日、忘れられない悲しい事故があった。9月に結婚したばかりのハル薗田さん(薗田一治さん)と新妻の真弓さんが、新婚旅行を兼ねた南アフリカ遠征に向かう途中、航空機墜落事故に遭って、帰らぬ人になってしまったのだ。

 ハル薗田というレスラーは、お腹がポッコリした体型だったが、サマーソルトもできる運動神経抜群の人だった。ただし、ファイト・スタイルはオールド・スタイル。基本に忠実な理に適った地味なレスリングで、立場的には脇役だった。多分、今だったら"職人レスラー"として高い評価を受けた人だと思う。

 そして人間・薗田さんは兄貴肌の面倒見のいい優しい人だった。三沢は兄のように慕っていたし、小川は薗田さんにプロレスを叩き込まれたと言っていい。当時、練習生だった小橋、菊地、北原にとっては、まだ怖いコーチというイメージしかなかったのではないか。

 私も薗田さんにはお世話になった。まだゴングが週刊化される以前、つまり全日本の担当記者になる以前の新人記者時代、控室になかなか入ることができずに廊下にいると「あれ、小佐野クン? 取材なら入りなよ」と声をかけてくれることもしばしばだった。何より、挨拶した翌日から顔と名前を覚えてくれたのが嬉しかった。

 私が薗田さんの悲報に接したのは事故当日28日の夜、大熊さんが横浜市港北区綱島で開いていた焼き鳥屋さんだった。綱島は私が小学生の時に住んでいた土地で、昔の仲間と飲んでいたら、テレビのニュースから南ア航空機事故を伝えるアナウンサーの声が聞こえてきたのだ。私は慌てて自宅に戻り、全日本の事務所に電話を入れた…。

 実は事故の2日前、私は薗田さんと電話で喋っていた。2日前、全日本は最強タッグの札幌大会。会場から元子さんが薗田さんに電話していて、途中で代わってもらったのだ。当初は25日に出発してローマ経由で南アフリカ入りする予定だったのが、現地のプロモーターの手違いで航空チケットが届かず、成田空港まで行ったのにUターン。改めて27日に出発することになっていた。 「薗田さん、記事上では出発していることになっているんですから、ちゃんと行って下さいよ!」  などと軽口を叩いてしまった記憶がある。

 27日の出発でもトラブルがあって、本当はユナイテッド航空で出発の予定だったのが、出発時間が大幅に遅れたためにキャセイ・パシフィック航空に急遽変更して台北まで飛び、そこから南アフリカ航空に乗り換えたことでモーリシャス沖で事故に遭ってしまったという。何という運命のめぐり合わせか。神様はいないのかと憤りを感じた。

 もし生きていたら薗田さんは今、49歳。レスラー人生をまっとうして引退していたかもしれない。気さくだったが、プロレスについて生意気な口をきくと許さなかった薗田さん。そんな貴方の教えを今も私は守っているつもりです。みっちゃんや小川をいつまでも見守って下さいね。

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<第83回>職人の時代(06.11.22)

 最近のリング上を見ているとインディー出身のレスラーが各団体で活躍していることを強く感じる。たとえば新日本では邪道&外道が"プロの職人"として一目置かれているし、ミラノコレクションも自分の色を出しつつ、新日本に順応している。ミラノにインタビューした時の、 「新日本のストロング・スタイルはプロレスのスタイルの一部であって、あくまでも新日本の中のスタイルですよ。自分はこれまでルチャ・リブレ、アメリカのオールド・スクール・スタイルを学んできたんで、今度は新日本のストロング・スタイルを学ぼうと思います」  は名言だと思った。

 さらに、今や全日本に欠かせないTARU、近藤、ブラザーのブードゥー・マーダーズは新日本のレッスルランド、ノアにまで進出しているし、同じく全日本ジュニアのスパイス的存在のNOSAWA論外&MAZADAの東京愚連隊もノアに上がることになった。

 インディーの大御所とも言うべき金村キンタロー、黒田哲広はどこのリングに上がっても対応できるし、同じくアパッチのGENTAROも引っ張りダコ。大日本の関本大介、バトラーツの澤宗紀なども様々な団体に上がっている。ゼロワンMAXのナンバー2的存在の田中将斗だってFMW出身だ。

 なぜ、インディー出がモテるのか? それは彼らがお客さんの心を掴むことを最優先に考えて生きてきたからであり、とにかくプロレスが好きでいろんなスタイルを吸収してきたからである。ハッキリ言って、お金儲けを考えたらインディー団体のレスラーにはならない。彼らはピュアにプロレスが好きなのだ。ピュアで、しかもハングリー・ガッツと研究心があれば、自然と職人になってしまう。今、日本マット界は、上辺のカッコよさではなく、職人の時代に突入した。


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<第82回>業界再編への模索(06.11.16)

 2007年1月4日、新日本の東京ドーム大会が決定した。これだけでも驚きだったが、そこに全日本が全面協力するというのだから、これは事件だ。そして大会名は『レッスルキングダムIN東京ドーム』。『レッスルキングダム』はユークスのゲーム名であり、これはまさに新日本、ユークスの総力を結集した勝負の大会になる。全日本はユークスとの業務提携からの参加というのが本当のところだろうが、それだけでなく武藤社長も“今、そこにある危機!”を感じているからこその決断だろう。

 ハッキリ言って、今の新日本にとって東京ドームはリスクを伴う。もし失敗したら、致命的なダメージを負ってしまう。それを承知での決断を買いたい。もし新日本が恒例の東京ドームを中止してしまったら、さらにプロレスのイメージは落ちてしまっていただろう。

 だが、これは本当に失敗できない勝負。もう一方の雄・全日本が参戦してきてコケたとしたら、これは救いがたい状況になってしまう。こういう形で東京ドームを強行する以上は、両団体が本当に腹を割ってマッチメークを決め、選手はどんなカードであっても恐れずに力いっぱい闘って、プロレスというものをアピールしてほしい。恐れることはない。プロレスは勝敗だけではないのだから。もちろん闘いは勝つためにやるものだが、上辺の結果を超えたところにプロレスの醍醐味があるのだ。

 こうした動きの一方では11月14日の後楽園ホールでプロレス統括組織GPWAが動き出した。11・14後楽園ホール大会は加盟団体の若手中心の大会だったが、会長の三沢光晴は、
「若い選手に闘いの場と練習の機会をなるべく多くあげて、選手のレベルアップを図りたい」
 と言い、ファースト・オン・ステージの中村祥之代表は、
「ウチらの小さな団体は、ノアさんだったら練習1ヵ月ぐらいのレベルでデビューさせて、あとは実戦で覚えていくというのが現実なんです。だから、こういう大会でいろんな団体の選手と当たることによって“いかに自分ができないのか”を知って恥をかくのが必要なんですよ。恥をかけるのは若いうちですからね」
 と言う。GPWAは今現在ではなく、先を見据えた底上げ運動なのだ。

 こうした動きによって新日本&全日本とGPWAの対立構図は生まれないと思う。双方と絡んでいる選手、団体も多いし、どちらの動きも「何とかして現状を打破しなければ!」という想いからスタートしているからである。

 今は何がプラスで何がマイナスになるかはわからない。一つ言えるのは何もしないでいるよりも、何かを模索した方がいいということ。2007年は業界再編に向けた様々な動きが出てきそうだ。

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<第81回>祝!石井智宏デビュー10年(06.11.7)

 先週の話になるが、11月3日、館林市民体育館で久々に新日本の取材をした。新日本の取材は10・9両国以来だから1ヵ月ぶりだ。

 まだ開場前、ニコニコしながら話しかけてきたのは石井智宏。 「知ってます? 俺、昨日でデビュー満10年なんスよ!」と石井。

 石井はWARでデビューし、WAR時代の天龍さんの最後の付人。もう10年なのかと感慨深いものがあった。私が石井の存在を初めて知ったのは94年の秋。引退間近の阿修羅・原さんにインタビューするためにWAR道場に行った時に練習生として汗を流していた。原さんは「小佐野クンが来るなら、いい肉を使ったチャンコにするよ」と言っていたが、実際にバクバク食べていたのは石井。随分と大食らいの若者だなと思ったものだ。

 石井はデビュー当時から負けん気が強くてガンガン相手に向かっていく男だった。当時、IWAジャパンのエースだった山田圭介相手でも凄いビンタを連発してキンロクさん(浅野IWAジャパン社長)を青くさせていたのが笑えた。天龍さんに「今度、デビューした新人の石井はいいですね!」と言った記憶もある。

 根はトンパチでWAR7周年の打ち上げパーティーではイッキのやり過ぎで急性アルコール中毒になって救急車で運ばれる始末。でも、そんな破天荒なレスラーっぽい石井に私は好感を持った。

 WAR活動停止後、フリーになってインディー各団体に上がっていたが、本人はメジャーの舞台を欲していた。分裂騒動後の全日本、旗揚げを目前にしていたゼロワンにもアプローチしたが、体が小さいためか採用されず。結局、生きる道はインディーしかなかった。

 02年の夏、私はGKから相談を受けた。「永島(勝司)オヤジが長州のサイパン合宿のトレーニング・パートナーを探しているんだけど、インディーで有望な奴はいないかな?」というのがその内容。私が推薦したのは石井だ。石井に電話してみると、もちろん大喜びでOK! 不遇の時代を知っていただけに、少しでも役に立てたことを嬉しく思う。

 以後の活躍は周知の通り。WJのど真ん中プロレスを体現し、今やリキプロを切り盛りして新日本でも活躍している。新日本に上がった当初は「現場監督に復帰した長州のエコひいきで新日本に上げてもらっている」という陰口もあったが、その負けん気いっぱいのファイトは新日本のファンにも認められた。

 いろいろと遠回りしたし、損もした石井だが、今のまま、ど真ん中を突っ走っていってほしい。10周年、おめでとう!


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