<第170回>長州番として最後の取材は(08.8.13)

 1987年3月28日、全日本プロレスの『チャンピオン・カーニバル』開幕戦をボイコットした長州力は同月30日にジャパン・プロレスから追放されてしまった。その長州に付いて行ったのはマサ斎藤、小林邦昭、保永昇男、若手の笹崎伸司、佐々木健介、レフェリーのタイガー服部、カルガリー・ハリケーンズのスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斉藤。さらにカルガリーで修行中だった馳浩が緊急帰国して合流し、彼らはニュー維新軍と呼ばれた。

 谷津嘉章、永源遙、寺西勇、仲野信市、栗栖正伸はジャパン・プロレスとして全日本に継続参戦、ジャパンは完全に分裂してしまったのである。

 当時、全日本プロレスがメインだが、ジャパンの担当記者でもあった私は、ニュー維新軍も継続取材することになった。ただし、それは期限付きで“新日本に参戦するまで”だ。新日本に参戦したら、今度は新日本担当の小林和朋記者の取材対象になるのである。

 私の番記者としての長州の最後の取材はサイパンだった。まだ上がれるリングがなかったニュー維新軍は4月14日〜18日の日程でサイパン合宿へ。私も1日遅れの4月15日の午後にサイパンに到着した。

 2月28日の“路上の一件”があっただけに気が重かったが、何とハファダイ・ビーチホテルに着いたと同時に長州と遭遇。「何だ、取材に来たのか? まあ、サイパンなんだからノンビリして行けよ」と予想外に笑顔。ホッと胸を撫で下ろしたものだ。

 ニュー維新軍の1日のスケジュールはすべて自由行動。午前中はプールサイドで各々自主トレーニング、午後はビーチで遊ぶ者、ショッピングに出かける者と完全なリラックスタイム。

 長州もリラックスしていて「カメラなんか持ってないで日光浴しろよ。絵が欲しい? じゃあ、みんなでマニャガハ島に行くか」と急遽、マニャガハ島ツアーへ。ただ現地に着くなり「暑い! 駄目だ。俺は帰るぞ。馳、一緒に来い!」と島に着いて30分も経たないうちに馳を連れて我々のツアーとは違う船に勝手に乗って帰ってしまった。我々は1時間後、迎えにきた船に乗ったが、海の向こうから「ヤッホー!」とカン高い声。何と馳が若い女性を乗せてジェットスキーで決めている。後年のナンパ道を極めた素質はこの頃から開花したのだ。

 私にとって、この時が初めてのサイパンだったから純粋に楽しかった。ヒロちゃんとジェットスキーをやったり、まだまだ大食漢だった邦昭さんに「飯食いに行こうよ」と誘われて、今のようには栄えていない暗いビーチロードを歩いて金八レストランに行ったり。夜はマシンの部屋でヒロちゃん、馳とバカっ話をしながら酒を飲んでいた。そうそう、そこに健介が「日本にラブレターを送りたいんですけど、宛名の書き方がわからなくて…」と入ってきたっけ。当時の健介は純情なハタチの坊やだった。

 長州とは…核心に触れるような話はしなかった。長州もいい加減疲れていただろうし、私も取材することに疲れていた。取材者としては失格だが、当たり障りのない話しかしなかったように記憶している。

 ただ1回、長州をムッとさせたことがあった。プールサイドで練習している時の会話だ。

「長州さん、『フライデー』に撮られちゃったのって、サイパンでしたよね」 「そうそう、プールサイドのアソコだよ。あれ以来、カメラ嫌いになっちゃったんだよな。…って、お前、つまらないこと思い出させんなよ!(怒)」

 約2年半の長州番はこうやって終わった。あの時代、結局は表面上だけで長州の内面には入り込むことはできなかったと思う。必死に食らいついたが、当時の私は24歳。やはり若すぎたと思う。

長州が、曲がりなりにも大切なことを取材を越えて私に話してくれるようになるまでに番記者を終えてから数年の月日を要した。

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<第169回>路上で長州の怒りの鉄拳が!(08.8.6)

 3月27日夜、ジャイアント馬場がジャパン・プロレス本社に乗り込んだことによって事態は収拾されたかに思われたが、翌28日昼過ぎには、またまた状況が一変した。この日は後楽園ホールで『チャンピオン・カーニバル』開幕戦が行われることになっていたが、ジャパンの選手&カルガリー・ハリケーンズがジャパン・プロ本社に集結して籠城。試合出場ボイコットの姿勢を鮮明にしたのだ。

 事態急変の情報をキャッチした私は"独りゴング特別取材班"として午後1時過ぎにジャパン・プロ本社に駆けつけた。その時点で本社にいたのは長州、マサ斎藤、小林邦昭、保永、栗栖、マシン、本社3階の道場に住む笹崎、健介の8選手。3時過ぎにはヒロ斉藤も合流した。

 4時半前に栗栖が出てきて「新日本が嫌で出てきたのに、また戻ろうとする奴らの気が知れないよ!」と憤然とした表情で後楽園ホールへ。若手の笹崎も後楽園ホールに向かったが、これは谷津の荷物を届けるためで、すぐにジャパン・プロ本社にUターン。後楽園ホールに電話を入れると、すでに永源、仲野は会場に到着しているという。

 5時前には寺西も本社に。しばらくしてスポンサーとの接待ゴルフを切り上げた竹田会長、大塚副会長が選手たちの説得のために駆けつけたが、ここで長州は辞表を提出したという。

 6時前には後楽園ホールに行っていたはずのタイガー服部が本社に来て選手たちと合流。アニマル浜口は本社にも後楽園ホールにも姿をみせなかった。

 張り込みは長期戦になった。後楽園の取材は他の記者に任せて、とにかく私は本社前に居座った。同じく張り込んでいたのは日刊スポーツの記者とカメラマンだけ。まだ3月だから夜になると冷え込み、自動販売機で熱燗になる日本酒を買って暖を取ったりしていた。

 午後8時16分…遂に長州が本社から出てきた。ここで私はすかさずカメラのフラッシュをたいた。「撮るなよ!」と言われたら、これまで約2年半の番記者としての感情があるから撮れなくなる。私のフラッシュと、長州の「撮るな、コラッ!」の怒声は同時だった。

 日刊スポーツのカメラマンはシャッターを押していない。「貴様―っ!」と長州は物凄い顔をして私に突進してくる。情けない話だが、私は思わずビビって、走って逃げてしまった。

 背中越しに聞こえる「逃げるな!」の長州の怒声。私は立ち止まって振り返った。ここで逃げても、今後も長州とは取材で相対していかなければいけない。どんな局面でも逃げてはならないのである。

 振り向いた私は「別に逃げてませんよ!」と精一杯の抵抗。大股でズンズンと近づいてきた長州は私の胸倉を掴むと拳を振り上げた。

胸倉を掴み、拳を振り上げたまま「フィルムを出せ!」と、声を張り上げる長州。ここまで来ると、意外に冷静なもので"殴られたら、鼻の骨が折れちゃったりするかな。そうしたら今日は徹夜の追い込み作業だからマズイよなあ"なんてことを考えていた。

「わかりました。今、撮った写真は使いません。でも、他に撮った写真もあるんで、フィルムを返して下さい」と言いながら、私はカメラからフィルムを抜き取ると長州にわたした。ただし、フィルムを引っ張り出されると感光して駄目になってしまうので、フィルムの端をクルクルッとパトローネに巻き込むことは忘れなかった。きっとデジカメの今の時代だったら「データを消せ!」ということになるのだろう。

 しばらくフィルムを手の上に乗せていた長州は、少し冷静になって「これ、返すよ」と返してくれた。そして「お前さ、俺の性格知ってるだろ? 俺を怒らせるようなことするなよ。話が聞きたいなら、今度ちゃんと取材を受けるから。今日は帰ってくれ」と静かに言うと、愛車で自宅に帰ってしまった。

 そんなやり取りを見ていて「僕は絶対に小佐野さんが殴られると思いましたよ」とニヤニヤしながら話しかけてきたのが若き日の健介。

 今でも健介は「アレは凄かったね!」と笑うし、後年、長州も「小佐野も昔、俺に胸倉掴まれたんだもんなあ。でも、そうやってきたからレスラーの気持ちを知ってるよな。他にもいろいろあったって? いや、昔の話はもういいだろ」と苦笑していた。

 何か事件が起こった時にはガチンコ取材ができるかどうかが勝負。そういう意味では、長州の一連の事件&騒動の追跡取材は私にとって貴重な経験であり、いい思い出でもある。今のマット界でああいう事件はまずあり得ないのだから。


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<第168回>長州が遂にフライング!(08.7.30)

 失踪(?)から1週間後の2月27日、ようやく長州キャッチに成功。「マサさんが猪木祭に出るんだから、その代わりにウチが主催する4月2日の大阪に新日本から誰か出てもいいんじゃないか?」という考えを引き出すことができた。

 それに沿うように3月23日には長州とジャパン・プロの大塚副会長が記者会見を行って、3月末日に期限切れになる全日本との提携契約は更新しないが、すでに発表されている『チャンピオン・カーニバル』に出場した上で完全独立、全日本との友好関係を保ちながら新日本のリングにも上がり、ジャパン・プロの自主興行には全日本、新日本の両団体に協力を要請するというビジョンを発表した。

 すべてが丸くおさまったように見えたが、内情は複雑だった。この構想はジャパン・プロの統一見解ではなかったのだ。のちに竹田勝司会長は「代表権を持つ私がなぜ、記者会見に同席しなかったか? 話し合いが二転三転する中で、妥協案として"とりあえず『チャンピオン・カーニバル』に出場してからジャパン・プロとしての方針を発表します"という会見にしようということになっていたのが、会見直前に長州が自分のロマンを語ると言い始めた。私は"馬場代表と話し合ってからの問題だ"と反対して会見に同席しなかったんです」と語っている。

 また馬場も「本来なら、発表する前に話が来るはずだけどね。向こうから相談に来て、それでその結果をみなさんに発表するのが筋道。今の段階では話が来てないんだから、やんなさいとも駄目とも言えん。まあね、専属契約があるんだから、それは無理だろうと。それをクリアーすれば可能だけど…"独立したい""はい、そうですか"という程度の契約ではありませんよ」と不快感を露にした。

 全日本とジャパンの興行上の業務提携は87年3月末日までだったが、ジャパン所属選手は、ジャパン・プロレスと全日本プロレスが存続する限り、全日本の所属選手として契約するという契約が交わされており、それに伴う対価が全日本からジャパンに支払われていたのだ。

 そして遂に長州がフライングする。3月25日、大阪ロイヤルホテルで催された『INOKI闘魂ライブPART2前夜祭』の猪木vs斎藤の調印式に長州が斎藤の代理人として姿を見せたのである。

 これを知った馬場は、ただちに専任弁護士と会って今後の対応を協議。ジャパン・プロでは全日本残留を決意していた永源が「このまま全日本のシリーズに長州が出るなら谷津を出さない!」と大塚副会長に申し入れ、選手が一枚岩ではないことが露呈してしまった。

『チャンピオン・カーニバル』開幕前日の3月27日夜、馬場は単身でジャパン・プロ本社に乗り込んだ。そこで竹田会長、大塚副会長、社長の長州、マサ斎藤らと話し合いを持ち"全日本と新たに契約し、選手全員が『チャンピオン・カーニバル』に出場する"という約束を取り付けた。これで事態は収拾されたかに思われたが…。

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<第167回>東奔西走…長州を探せ!(08.7.16)

 1987年2月20日から姿を消してしまった長州力。表向きには"発熱性下痢、右手首腱鞘炎の悪化"を理由に群馬県伊香保温泉で療養していたが、23日の午後に密かに帰京し、24日夜には東京・恵比寿のリキ・プロダクションで竹田会長、加藤専務、マサ斎藤とミーティングを持ったことは確認されたものの、公にはどのマスコミにもキャッチされなかった。

 のちに週刊ゴングで一緒に仕事をすることになる週刊ファイトの金沢克彦記者が22日に伊香保温泉の旅館で長州をキャッチしていたことが明らかになるが、これは週刊プロレスと週刊ファイトの連携だった。当時、週プロのターザン山本編集長は、長州と密接な関係にあった松浪健四郎と親しく、松波氏から長州の居場所を聞いて、週刊ファイトにも情報を提供。週プロも伊香保に記者を派遣したが、キャッチできたのは金沢氏だけだったのだ。ただし、金沢氏は長州との約束で、このことを記事にはしなかった。

 それはさておき、マスコミ各社は長州キャッチに必死だった。特に新聞社の記者は腕の見せどころだけに必死。東スポは池尻のジャパン・プロレス本社、恵比寿のリキ・プロダクション、長州の自宅に記者とカメラマンを配置していた。当時、長州の自宅を知っていたのは東スポの川野辺修記者と私だけで、私は川野辺記者から「他の新聞社に長州の自宅は教えないでくれよ」と口止めされたものだ。

 さて、週刊ゴングの取材班はというと…私ひとり。ジャパン・プロ、リキ・プロ、自宅と3箇所をひとりで回らなければいけないのだが、もちろん同時に3箇所に行くことはできないから、勘が頼り。朝起きると「さて、今日はどこから行こうか?」と思いつきで行動するしかなかった。午前中にリキ・プロに行ったら、午後2時過ぎからはジャパン・プロへといった具合。ジャパン・プロと長州の自宅は歩ける距離だから行ったり来たり…という日々が続いたのである。

 昼時はジャパン・プロにいることが多かった。というのも近くにある『スナック鶴』のランチが美味しいのだ。小林邦昭さんに教えてもらったのだが、ジャンボ・コロッケ、カキフライ、秋刀魚の塩焼き、野菜炒め…とバラエティに富んだ定食(御飯と味噌汁付)が半端じゃなくウマイ! 若手時代の健介が1日に何回も通ったのも頷ける。

 それはさておき、26日午後に東スポが長州キャッチに成功。どっちみち速報性では新聞には勝てないからいいのだが、こうなると週プロ、週刊ファイトには負けられない。

 翌27日。さすがに私も連日の張り込みの疲れが出て、この日ばかりは午前中は体が動かず、代わりに田中幸彦記者にジャパン・プロに行ってもらった。

 午後12時過ぎ、田中記者から私の自宅に電話がかかってきた。田中記者が2階の事務所にいた時に、長州がスッと1階の道場に入っていったという。道場を覗き込むと「入ってくるな! 撮るなよ!」と怒声が飛んできたとのことだ。

 私はカチンときた。こっちは1週間も張り込んでいたのだ。すぐに加藤専務に電話して抗議すると同時に取材を頼んだ。結局、田中記者は写真撮影に成功、話も少し聞けたというが「これからマサさんと飯を食いに行くから。明日、アメリカに帰っちゃうから、大事な話があるんだ。それが済んだら、ここに戻ってくるから…」と言われたという。そこで田中記者とバトンタッチする形で私はジャパン・プロに向かった。

 午後3時過ぎ、ジャパン・プロに戻ってきた長州は意外に元気そうだった。長州が静養中に出した結論は"全日本との提携を継続しながら、新日本にも出る"というニュアンスのものだった。ジャパンは4月2日に全日本の興行を主催するために大阪府立体育会館を押さえていたが、長州は「マサさんを猪木祭りに出す代わりに、4・2に新日本から選手が出てきてもいいんじゃないか」と言うのだ。

そして、中断せざるを得なくなっていた鶴藤長天キャンペーンについても「これがうまくいけば、その第1弾になると思うぞ。鶴龍と話してもいいかなと思っている。とにかく俺は、みんながうまくいく方向を考えているんだから、キナ臭いことは書かないでくれよな」と言った。

だが、事態はこの後に急展開を迎える――。


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<第166回>長州力が消えた!(08.7.9)

 マサ斎藤が東京・中野サンプラザにおける『突然卍固めLIVE』に出現してアントニオ猪木に花束を渡した1987年2月20日の同時刻、私は東京・後楽園ホールにいた。全日本プロレスの『エキサイト・シリーズ』開幕戦を取材するためである。

 ここでも"事件"が起こった。いるべきはずの長州力の姿がなかったのである。いつもなら誰よりも早く会場入りするはずの長州が控室にいない。長州だけでなく、谷津、長州の付人の笹崎、健介もいないのだ。

試合開始30分前の6時になって笹崎と健介が長州と谷津の試合道具を持って会場入り、谷津は6時15分に裏口の会談からひっそりと会場入りした。

 とにかく雰囲気がおかしい。こうした状況で、長州の異変(?)について最初に口にしたのは意外にも馬場だった。 「長州は下痢と発熱のために欠場するらしいなあ…」。

 6時半過ぎにジャパン・プロレスの竹田会長、大塚副会長が会場に駆けつけて緊急記者会見を行ない「長州は発熱、神経性の下痢のために試合を欠場します。明日は出られますよ」 と発表したが、歯切れが悪い。そして6時50分過ぎに会場入りした加藤専務が改めて「5時10分過ぎにリキ・プロダクションにいた私に長州から2度電話が入りました。1度目は"体調が悪くて、出られそうもない"という話で、2度目は"駄目だ。出られない"という電話だったので、すぐに大塚副会長に連絡しました」と事情説明したものの、あの長州が発熱、下痢程度で欠場するだろうか?  実は、前日の19日午後2時から5時半過ぎまでジャパン・プロレスは幹部会を行なっていた。ここでマサ斎藤の新日本出場(3・26大阪城ホール)へのGOサインも出されたわけだが、実は長州と谷津が"あること"で対立して、途中で席を立ってしまったことも判明した。

 そして問題の20日。後楽園ホールの時点では、ジャパン・プロの関係者も長州の居所を掴んでいなかった。大会終了後、竹田会長、大塚副会長、加藤専務、マサ斎藤、谷津は長州の自宅に集合、ここに長州から居所を知らせる電話が入り、明け方になって群馬県の伊香保温泉に駆けつけて話し合いを持ったのである。

「明日からは出られる」という発表だったが、結局、長州は欠場を続けた。 何が長州を追い詰めたのか? 

新日本とジャパン・プロが大塚副会長と新日本の杉田氏のラインによって水面下で接近していたことは第163回で書いているが、実はこれとは別に加藤専務と倍賞鉄夫のラインも同時進行で動いていた。当時、大塚副会長と加藤専務は冷たい関係になっており、大塚副会長は加藤―倍賞ラインの動きをまったく知らなかった。だが、加藤専務と親しい長州は両方のラインを知っており、その板ばさみになっていたのではないかと思われる。ちなみにマサ斎藤の新日本出場を推進したのは加藤―倍賞ラインだ。

 恐らく長州は、新日本に戻りたいという気持ちはあっただろうが、考えはまとまっていなかったと思う。新日本への会社全体としてのUターンか、選手だけか、自分ひとりだけか…あるいは、全日本との提携を維持しつつ、新日本に上がれる道を模索していたのではないかと思われる。

その方針の揺れを幹部会で谷津に糾弾されて席を立ってしまったのではないか。長州にとって"蒸発"は、理想と現実の狭間で自分を見詰め直す唯一の手段だったのかもしれない。

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<第165回>いないはずのマサ斎藤とバッタリ!(08.7.2)

 長州が婚約を発表した87年2月16日、私は偶然、意外な大物をキャッチした。記者会見前の昼過ぎ、フラリと東京・池尻のジャパン・プロレス本社を訪ねたら…何とアメリカ在住のはずのマサ斎藤がいたのだ。

 マサさんは84年4月、シカゴでケン・パテラが起こした警官暴行事件に巻き込まれて約1年半もウィスコンシン州ホーキンスの『フランブル・ステート・コレクショナル・キャンプ・システム』に収監されて、前年86年12月2日に出所したばかり。同月25日から古巣AWAでカムバックしていた。

 ちなみに私とマサさんは、私が81年にアメリカに行った時にマスクマンのジ・アサシンを名乗っていた斎藤にフロリダ州マイアミで会っているし、84年1月にジャパン・プロの一員として帰国した時には熊本の旅館での帰国歓迎会で飲んでいるから顔見知り。

 私がジャパン・プロ本社を訪れたのは昼過ぎで、3階の合宿所に遊びに行くと浜口、小林邦昭、寺西、永源、保永、笹崎、若き日の健介がチャンコ鍋を囲んでいて、マサさんはソファーに陣取ってビールをラッパ飲みしているところだった。

 実は3月26日に大阪城ホールで開催される『INOKI闘魂LIVEパート2』の猪木の対戦相手としてマサ斎藤の名前が未確認情報ながらも入ってきていただけに、いきなりのマサ出現にビックリしてしまった。私の驚いた表情を見たマサさんは「あれっ? 俺、ここにいちゃあ、まずかったのかなあ…」と苦笑い。そしてマサさんの視線はテレビ…前年10月9日に行なわれた『INOKI闘魂LIVE』のビデオを捉えていた。

 長州と藤波の問題も浮上しているデリケートな時期にマサさんはまったくの無防備。このアメリカ的ないい加減さというか豪放磊落なところがマサさんの魅力だ。

「2月11日の試合を最後に12日の便で帰ってきた。日本に着いたのは13日の夕方だよ。長州との"男と男の約束"のために帰ってきたんだ。確かに重大な話もしたよ。今は何も言えないけどな。俺の発言によって迷惑をかける人が必ず出てくるからね」と、言葉を選ぶふうでもなく答えてくれるマサさん。「猪木さんに興味は?」と核心に触れる質問をしても「アントンには負けてばっかりだったから、もう1回だけやりたいよな。ひとりで乗り込んでいったって構わないけど、今の状況ではそこまで突っ走れるかなあ」と真正直な答えが返ってきた。

 4日後、マサさんは行動を起こした。2月20日、東京・中野サンプラザの『突然卍がためLIVE』という猪木の誕生日イベントに花束を持って現れて「アントン、おめでとう! もう1回闘おう」と猪木と握手したのである。

 このマサ斎藤の行動によって新日本とジャパン・プロレスが大きく動き出した。同日、全日本プロレスは東京・後楽園ホールでエキサイト・シリーズの開幕戦を迎えたが、マサ斎藤が行動を起こした同時刻、長州は…。


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<第164回>婚約者と親しげな私に…長州がムッ!(08.6.25)

 2月5日、新日本=両国と全日本=札幌を結んだ藤波と長州のラブコールの応酬によって一時中断せざるを得なくなった鶴龍長天キャンペーン。それでも取材は続行しなければならない。私はシリーズ・オフに加藤一良氏(ジャパン・プロレス興行とリキ・プロダクションの専務を兼任=現在は全日本プロレスの営業顧問)に長州のインタビューを頼んだ。

 この頃のジャパン・プロの人間は複雑だった。ジャパン・プロレスは長州を社長とする選手所属のジャパン・プロレス、興行を担当するジャパン・プロレス興行(社長は大塚直樹氏)、長州のマネージメント、グッズ、芸能活動を仕切るリキ・プロダクション(社長は長州力)に分かれており、長州に最も近い人物が加藤氏だった。長州を取材するには大塚氏よりも加藤氏に頼むのが近道だったのである。

「今週はちょっとスケジュールの調整がつかなくて長州のインタビューは無理ですね。ゴングさんの締め切りはいつでしたっけ? 16日? ウーン、今は言えませんけど、表紙と巻頭カラーになるネタを提供しますからページを空けておいて下さい。14日の夜にはお話しますから、それまで待って下さい。約束しますよ」 というのが加藤氏の答えだった。私は高校生のファンクラブ時代から加藤氏とは交流があった。当時、加藤氏は新日本の営業次長でファンクラブの担当でもあったのだ。

私は加藤氏の言葉に賭けるしかなかった。そして14日夜、約束通りに加藤氏から電話があった。

「小佐野さん、お待たせしてすみませんでした。実は明後日に長州の婚約を発表します。これ、大きなニュースでしょ?」と加藤氏。確かにこれはビッグニュース。私は1月中旬に「長州に22歳の婚約者がいて、秋に挙式の予定」という未確認情報をキャッチしていたが、まさかこんなに早く発表になるとは思わなかった。

 ただ、発表から本の発売まで4日間あり、単なる婚約発表速報ではパンチに欠ける。そこで加藤氏に婚約者の英子さん(現・長州夫人)のプライベート写真を貸してくれるようにお願いした。

 16日午後3時半から東京・品川のホテル・パシフィック『ルビーの間』で婚約発表記者会見。私は記者会見の前に長州と英子さんの控室に通された。そこで英子さんにアルバムを見せてもらい、写真を借りることに成功。

 英子さんはとても気さくな人で「これは○○の時で…」と、アルバムを開きながら写真の説明をしてくれた。ちなみに当時、長州=35歳、英子さん=22歳、そして私は25歳。長州より私の方が英子さんと年が近いから話が弾む。 私と英子さんの親しげなやりとりを黙って見ていた長州が「おい、小佐野、その写真は俺だって見たことがないんだぞ!」と、ムッとしながら話に割り込んできたのが可笑しかった。

 ちなみに婚約までの経緯は、前年86年9月初旬に長州のレスリングの後輩の紹介で知り合って意気投合、11月には長州が英子さんの実家を訪れて「お付き合いしています」と両親に挨拶、クリスマスイブに長州がプロポーズし、加藤氏が私に電話をくれた2月14日に結納、そしてこの婚約会見の日を迎えたという。

 鶴龍長天キャンペーンが思うようにいかない中、これは私にも明るい取材、明るいニュースだった。

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<第163回>13年後に知った事実!藤波と長州の間には…(08.6.18)

 藤波が両国国技館からテレビを通じて呼びかけ、それに対して札幌中嶋体育センターで「ジャパンとして受けて立つ」と応えた1987年2月5日。コメントを発した後も控室に残っていた私に長州はこう言った。 「全日本とおかしくなるとか、変なことを書くなよ。これは、そういう問題じゃないんだ」。

 鶴龍長天キャンペーンを通り越して俄かに具体化した藤波VS長州。その裏には何があったのか? この時から13年後の2000年に私はジャパン・プロレスを題材とした『昭和プロレス維新』という本を書き下ろすために、改めて当時の関係者に取材したが、当時では知りえなかった数々の新事実が出てきた。

 鶴龍長天キャンペーンの第1弾として小林和朋記者が長州に話を聞いたのは1月9日の千葉公園体育館。偶然にもその前日の8日に長州は極秘で猪木に会っていたのである。

 8日午後、ジャパン・プロの大塚副会長は東京・池尻の本社で新日本の杉田豊久渉外担当部長の訪問を受けていた。杉田氏はジャパン・プロに興行の手助けを要請し、さらには「社長(猪木)が会いたいと言っている」と大塚氏に告げた。同夜、ジャパンの選手は全日本の川崎大会に出場。大塚副会長は試合後に長州を車に乗せて新日本の事務所に向かった。そこでは猪木、坂口が待ち受けており「営業の手助けをしてほしい」という話から「営業、選手を含めて全員で戻ってきてほしい」という話に変わったという。 その翌日の週刊ゴングの鶴龍長天キャンペーンの取材だったから、長州もさぞかし驚いたことだろう。

 そして1月17日の徳山で長州は藤波の名前を出したが、その翌日の18日、長州、大塚副会長、永源遙選手会長は密かに福岡に移動して福岡全日空ホテルで坂口、藤波、杉田氏と会談を持っている。この時のジャパンの回答は「全日本との問題もあるので、全日本と新日本の両方に上がれる方向でどうだろうか」というものだった。

 長州は鶴龍長天キャンペーンの取材で「全日本との関係を壊してまでもというのはないよ」「今の俺の立場としては馬場さんに話を通すのも筋だけどな」「馬場さんと猪木さんが話し合ってくれれば…」というような発言が度々出ていたが、こうした水面下の動きを考えれば、それは長州の本心だったと思う。

 だが、2月5日の藤波と長州のやり取りは馬場を硬化させてしまった。「自分たちだけでいいカッコしないで会社を通して話をするのが筋というもの。そうでないと、できるものもできなくなるかもしれないよ。俺自身は何も話を聞いてないし、噂だけでは返答できない。こういう形では鶴龍もコメントのしようがないだろう。(ジャパンは)他のリングに上がっちゃいけないとか、テレビ、興行権、場所…問題はいっぱいあるんですよ。ちゃんと話し合いをして、そういう条件がすべて満たされて、それでもし鶴龍がやりたいというなら、これは実現する。でもまあ、今まで条件が満たされたことはないからなあ…」と、馬場は藤波と長州、鶴龍長天に関して、初めてコメントを出した。

 団体間の問題が浮上してきたら、さすがに一マスコミは介入できない。鶴龍長天キャンペーンは一時中断を余儀なくされた…。


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<第162回>別の動きに利用された(?)鶴龍長天キャンペーン(08.6.11)

 長州が1月17日、徳山におけるカート・ヘニング相手にPWF王座を防衛した後、テレビ生中継で「まあ、ジャパンがこの世界で生きていくためには…ジャンボや天龍なり、藤波なりをみんな倒さなきゃならないから」 と発言したことは、鶴龍長天キャンペーンが大前進したように見えた。

その翌週の週刊ゴング第140号では評論家の菊池孝氏、山田隆氏、東京スポーツの川野辺修氏、フクニチスポーツの小池幸雄氏に集まってもらって鶴龍長天への忌憚のない意見を寄せてもらって「まずマスコミ・サミットを行なって記者クラブを作り、その記者クラブが4選手に共同記者会見を要請してはどうか」というところまで話が盛り上がった。

 だが、藤波と長州のフライング(?)によって状況は急速に変わっていった。この問題を常に現実的に考え、慎重なコメントを発していた天龍は 「藤波選手の本心は"もう一度、長州とやりたい"じゃないかと思うんだ。長州というのがあって、その線上に鶴龍がいるような気がするね…」と胸の奥にしまっていた本心を語ってくれた。それが私には引っかかった。

 そんな状況で、2月2日、『ワールドプロレスリング』の生放送中に古館アナが「先だって他局のテレビ放送におきまして、あの長州が…」と切り出し、「藤波の返答が注目されるわけですが…2月5日、両国国技館で、満天下のファンの前で長州に対する返答メッセージを送ると、藤波はきっぱり宣言しています」と予告発言。

さらに解説の山本小鉄も「やはり呼びかけてくれたんだから、応えなければいけないと本人は言ってるわけですけど…どういう発言をするか注目したいですね。楽しみですね」と続けた。これは明らかにテレビ朝日の意思、新日本の意思を感じさせるものだ。鶴龍長天キャンペーンとは明らかに別の動きが表面化した瞬間だったと言っていい。

 問題の2月5日、藤波は午後6時から両国国技館の記者クラブで山本小鉄同席の上で記者会見を行ない、テレビカメラの前で「長州の呼びかけに対して、やっとその時期がきたのかと…今年は何か感じるものがある。必ずやります! 自分も長州選手、鶴田選手、天龍選手、またこれに続くこれからの選手にも呼びかけます」と力強くガッツポーズ。

坂口副社長も「フロントとしてバックアップします。お互いに障害はあるだろうけど、努力します」とバックアップ発言を行なった。

 この模様は同日、札幌中嶋体育センターで試合を行なっていた全日本、ジャパン勢にも伝えられた。もちろん私は札幌にいた。

「こういうことは事前に話があるのが筋…いきなりコメントを求められても、答えようがないよ」と、天龍は不機嫌そうにポツリ。馬場は問いかける報道陣をジロリと見回して無言だった。

 一方、ジャパン側は盛り上がっていた。大塚副会長は「前向きな姿勢で取り組んでいきます」と声を弾ませ、長州も「ジャパンとしては受けて立つぞ! 鶴龍も1歩出たいだろうが、上がいるだろう。だから比較的自由な立場の俺が1歩前に出るよ。鶴龍もマスコミの協力で出れるようにしてほしい。4人が会うのもいいことだ。これはできる!」と受けて立つことを宣言した。

 この瞬間に鶴龍長天キャンペーンは挫折した――。

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<第161回>鶴藤長天へ…長州が動いた!(08.6.4)

 鶴龍長天キャンペーンはスタートと同時に読者から大きな反響があった。そして鶴田、藤波、長州、天龍の4選手も真剣に取り組み始めてくれた。

キャンペーン第1弾の第138号が発売されたのは1月16日だったが、すでに第1弾の取材を受けていた藤波は本の発売2日前の14日、後楽園ホールで木村健吾との一騎打ちを制した後に、公の場で「長州、鶴田、天龍にもファンの夢を実現させるために、ぜひ立ち上がってほしい。プロレス界全体のより大きな発展に賭ける夢は、みんな一緒だと思う。同じ事を考えている人間が一つになれば、必ずそこからいいものが生まれる。もう、個人レベルの問題でこだわっている時代じゃない。必ず、これから大きな波が起こります。いや、俺たちの手で必ず大きな波を起こしてみせます!」 と頼もしい発言をしてくれた。

さらに第138号の他の3選手の発言を読んで「みんないい発言をしてるじゃない。問題はこれからですよ。キャンペーンだけで終わらせては駄目。試合のスケジュールは、ある程度ハッキリしてるわけだから、次のオフ(2月)にも話し合いの場を持ちたいね」と前向きな姿勢を見せた。

 この言葉を受けて、私は17日の全日本・徳山大会に出掛けた。鶴田、天龍、長州に取材するためだ。

「正直、自分はあまり大きな発言はできないし、言う言葉にしても慎重に選んでしまいますね。前にも言ったけど、とりあえず飯を食うだけでもいいから、まず4人が同じテーブルに着くことですよ。もし、その段階まで行けば、自分としては言いたいことは言うし、聞くことは聞く。その上で譲れない部分は譲らないし、積極的に出るつもりです。この件に関して自分は慎重に対応すると同時に、自分の言葉に責任を持ちますよ」と鶴田の言葉は地味だったが、この問題に真摯に取り組んでいることは十分に理解できた。

「これは四分六分で実現する可能性は高いと思うよ。ただ、こういうことをちゃんとやっていくには一進一退になると思うし、そうそう派手なことも言えないね。こうして話していることが誌面に載る以上は、俺たち以外の人間の情報源にもなるわけだから、うかつなことは言えないわけだ。あと、マスコミ全体がどう動いていくかも一つの問題だと思うよ。ゴングが独走して他のマスコミがそっぽ向いたら終わり。俺たちだけじゃなく、マスコミの協調も大切なんじゃないの」と天龍も鶴田同様に慎重かつ現実的な発言だった。

 鶴田も天龍も、アドバルーン的な発言は一切しなかった。だが、私はその姿勢が逆に週刊ゴングへの誠意に見えた。

 さて、一番素っ気なかったのが長州だ。「この手の問題は、いつも話題だけで終わっているし、これ以上は何も言いようがないな。藤波発言? 俺はいつだって立ち上がっているよ!」といった感じ。

だが、この長州が真っ先に行動を起こした。この日の夜、カート・へニング相手にPWF王座7度目の防衛に成功した後、リング上で日本テレビの若林健治アナウンサーの「長州選手の今年の抱負はズバリ何ですか?」の問いかけに「まあ、ジャパンがこの世界で生きていくためには…ジャンボや天龍なり、藤波なりをみんな倒さなきゃならないから。まあ、一生懸命、頑張ります」と答えたのだ。

テレビ生中継で、敢えて藤波の名前を出した長州。これで一気に鶴龍長天は動き出すと思われたが、状況は意外な方向に向かっていく…。(続く)


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