<第160回>ガチンコの鶴藤長天キャンペーン!(08.5.28)

1987年の初め、週刊ゴングは竹内宏介編集顧問の発案で、大キャンペーンに取り組むことになった。それは鶴田、藤波、長州、天龍の4選手の激突を団体の枠を越えて実現させようというもの。その名も鶴藤長天。4人の名前の頭を使うと、奇しくもカクトウチョウテン=格闘頂点になるのだ。このあたりの発想は、竹内さんならではのものだった。

 当時の状況を説明すると鶴田=35歳、藤波=33歳、長州=35歳、天龍=36歳と"俺たちの時代"を叫ぶ4人が最も脂の乗った時期だった。全日本とジャパン・プロの業務提携によって鶴田VS長州、天龍VS長州は実現していたが、藤波VS長州は2度と見られないと思っていたし、全日本内の鶴田VS天龍もご法度の時代だった。週刊ゴングとしては、この4選手の自由な激突を実現させることが、新たな日本プロレス界の起爆剤になると信じていたのだ。また、引き抜き防止協定を結んだことによって新日本と全日本の関係が良好だったことも、このキャンペーンを後押ししてくれた。

 これは本を売るための掛け声だけのキャンペーンではなかった。当時の日本スポーツ出版社の会社の規模では、もし実現しても興行を打ったり、日本マット界再編に動くほどの力がなかったため、話が具体化したら東京スポーツに預けることを考えていた。そしてライバル誌の週刊プロレスとも連動して盛り上げていこうというところまで会議では話が進んでいた。完全にガチンコ・モードだったのだ。

 このキャンペーンの出発点は「よし、やろう!」という4選手コメントをもらうのではなく、実現のためには現実的にどうすればいいのかを語ってもらい、ゴング誌上を選手の情報交換の場にすることだった。

 4選手との意見交換の担当は、全日本担当記者の私は鶴田と天龍、新日本担当記者で、新日本時代に長州も取材している小林和朋記者が藤波と長州。キャンペーン第1弾となった138号で4選手は以下のような発言をした。

「ゴングさんとか東スポさんとかマスコミが中に入って、こういう問題を話し合う場を作ってくれることがベストだと思いますよ。僕としては、そうしたオープンな場を設定してもらって、そこでしっかりした意見の交換をしたいです」(鶴田)

「年齢的には僕が一番下なので、鶴田選手でも長州、天龍でも"集まろう"と言えば、どこにでも喜んで出て行きます」(藤波)

「ただひとつ言えることは、今年が去年と同じだったら、もう終わりだ」(長州)

「選手は会社と契約しているんだし、軽く言うほど話は簡単なことではないんだよ。実現には2つ考えられるよ。(団体の)フロントが動くか、その当事者が動くか…この2つしかないだろう」(天龍)

 私が直接取材したのは前述のように鶴田と天龍だったが、一番地味な発言をした天龍が、最もこの問題を現実的に捉え、考えてくれているような気がした。(続く)

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<第159回>輪島さんの人柄に触れたシャーロッテ(08.5.21)

 1986年初冬は大相撲横綱からプロレスに転向した輪島大士の取材に東奔西走した。

 まずは11月1日、輪島の故郷・石川県七尾における日本デビュー戦。11月1日は3連休の初日だったので、早めに七尾までの交通の便を予約していたのだが、何と寝坊をしてしまい、すべて自由席でギュギュウ詰めになりながら七尾へ。試合終了後には先輩の清水勉氏(現Gスピリッツ編集長)、写真部長の佐々木雄一氏の運転で東京まで寝ないで車で移動して翌2日朝からの追い込み作業という強行軍だった。

 だが、私のスケジュールはここからが本番。明けた3日、輪島&鶴田&天龍とノースカロライナ州シャーロッテに飛んだのだ。シアトルを経由してアトランタに入り、そこから国内線でシャーロッテに入るというスケジュール。私が輪島に同行取材するのは5月のハワイに続いて5度目だから、もう顔見知り。

素顔の輪島さんは凄く気さくで、行きの飛行機では他の乗客に自分のデビュー戦が載った新聞を見せたり、経由地のシアトルでは「おい、山口百恵が同じ飛行機に乗っていたぞ。ほら、あそこにいる。見てこいよ!」と、自分も有名人なのに大はしゃぎ。よく見てみると山口百恵ではなくて三原じゅん子だった。輪島さんは結構、ミーハーなのだ。

 濃霧のために飛行機が遅れて、シャーロッテに着いたのは現地時間3日の深夜だったが、輪島さんは元気いっぱい。すぐさまホテル内にある『東京レストラン』に顔を出すと親子丼、うどんをペロリ。さらに故郷・七尾の朝市で仕入れてきたという海の幸を鶴田、天龍、私と東スポの柴田惣一記者に振舞ってくれた。でも、どうやってアメリカに持ち込めたのだろうか!?

 試合は翌4日にスパルタンバーグ、8日にシャーロッテと2大会を取材したが、私自身は素顔の輪島さんが興味深かった。ホテルの部屋は、わざわざ『東京レストラン』に近い1階にして、我が家のように出入りする。現地で知り合った日本からの商社マンを自分の部屋に招き入れて、日本から持ってきたデビュー戦のビデオを見せる。

 とにかく1人でいるのが苦手なようで、夜になると「おい、オニギリ作ってやったから、食いに来いよ!」と誘いの電話が。部屋に行くと大きなオニギリが用意してあって「おお、来たか。一緒にビデオを見よう」と日本から持参した時代劇のビデオを一緒に見る破目に。途中でウトウトしようものなら「おい、いいところなんだから寝るな!」とうるさい。そして自分が眠くなると「じゃあ、また明日な」。

おいおい、随分と自分勝手じゃないか! でも、そんな輪島さんが憎めないのだから不思議。これはもう、独特の雰囲気と言っていいだろう。

 マッサージ、挨拶状を出す人たちのリストの書き出し、国際電話をかける…約1週間、私と柴田記者はほとんど付人状態。それでも、私たちの気を引くために、夜になると、せっせとオニギリを作ってくれる輪島さんは本当にいい人だった!


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<第158回>長州が初めて私の名前を(08.5.14)

 1984年秋〜87年春にかけて、一番きつかった取材は長州力のインタビューだった。つまりジャパン・プロレスにいた時代だ。新日本の維新軍団の頃から取材しづらい選手だったが、ジャパンになってからは社長の重責も加わって、新日本時代よりも神経をピリピリさせていた。試合会場での控室の取材も"出たとこ勝負"だったのだ。だが、そんな現場の事情などは、編集部の上の人間には関係ない。「長州のインタビューを取ってきて!」と言われたら、やるしかないのである。

86年夏、当時の舟木昭太郎編集長(現・株式会社アッパー代表取締役社長)が「小佐野クン、長州のインタビューを表紙と巻頭記事でやりたいから、取材してきて」といきなり振ってきた。

 当時の長州の状況を説明すると、全日本に輪島、テンタという大相撲の大物が2人も入団した直後だけに「全日本はジャパン・プロが抜けるのを前提として体制作りを始めているのでは…」と囁かれるデリケートな時期。週刊ファイトには"長州と藤波が密会した"という記事が載り、猪木がハワイ遠征中に「猪木祭り(10月9日=両国国技館)に長州も参加したいと伝えてきているらしいよ」と本誌記者に喋るなど、全日本からの独立、あるいは新日本との接近が注目されていた。

 昔からそうだが、長州という人はこちらが決定的な情報を持っていても絶対に口を割らない。そして当時は面倒な話題が出ると、一切、取材に応じない姿勢を貫いていた。だが編集長命令だから取材しないわけにはいかない。本の締め切りからすると、取材できるのは8月22日の午後しかなかった。ただし、前日は山形県長井市の試合があり、試合後にハネ立ち(試合後、宿泊せずに移動すること)で、帰京は深夜3時という悪条件。どう考えたって長州の機嫌がいいわけないのだ。

 それでも8月22日午後1時、意を決して東京・池尻のジャパン・プロレス本社を訪ねると、長州はすでに練習を終えて一息ついているところだった。

「アレ? どうした? そうか…藤波と会ったこと、猪木祭りのこと、独立のことが聞きたくてインタビューしに来たんだろ!」と、ニヤッ。いつもと違うフレンドリーな対応で、しかも私の取材意図を自分から言ってきたから正直、驚いてしまった。

 長州は実によく喋ってくれた。 「藤波と会ったのは、そんなに大げさな意味はないんだよ。"お互いにどうか"ってぐらいでな。もし藤波と会ったのと独立が関係していたら、そんな大事なことをマスコミにペラペラ喋るわけないだろ(苦笑)」 「猪木祭りには何かしたいよな。もう、離れて2年くらい経ってるしな。時間があれば、どんな形でもいいから花を添えたいよ」 「どうも俺の言うことは勘違いされるんだよなあ。俺は喋るのが、あんまり得意じゃないし。でも、こうしてキチンと説明すれば、わかるだろ? 一つの事柄だけ捉えてみるとわけがわかんなくなっちゃうんだ。だから変なニュアンスで書かないでくれよ」  などと、時間にして実に63分!
いつもだと「くだらないことを聞いたら、終わりだ」とプレッシャーをかけてくるのだが、この時は熱っぽく、一生懸命に喋ってくれたのである。

恐らく、雑音が多い中で本音を吐き出したかったのだと思う。そこに、たまたま2年も密着していた私がいたのだろう。

 振り返ると、それまでは「オイ!」「ゴング!」と呼ばれていたのが、この時に初めて「小佐野もさ…」と名前で呼ばれたような気がする。ようやく長州は壁を外してくれたのだ。だが、それから半年もしないうちに長州は新日本復帰に動くことになる――。

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<第157回>悔しい誤報!?その時、馬場さんは…(08.5.7)

 一昨年の6月7日(現地時間)、カナダ・バンクーバーで亡くなったジョン・テンタはカナダ人力士からプロレスへの転身ということで話題の人だった。85年10月にカナダから来日して佐渡ヶ嶽部屋に入門したテンタは琴天太、琴天山の四股名で活躍し、86年の初土俵から3場所優勝(序の口、序二段、三段目)の21連勝をやってのけて注目を浴びたが、相撲界に馴染めずに同年6月28日、名古屋場所を前に脱走、7月2日に廃業してしまったのである。

 190センチ、160キロの巨体、相撲入り前にはレスリングで鳴らしていただけに、この逸材を日本プロレス界が放っておくわけがない。新日本、全日本共に相撲の殿堂・両国国技館を使っているだけに、日本相撲協会との道義的な問題にデリケートになっていて、表向きは「相撲界とけじめがつかない限り、こちらから動くことはない」という姿勢を見せていたものの「素材的には欲しい」と発言。水面下で争奪戦が繰り広げられたのは間違いない。

 そのテンタがプロレス入りを前提として7月4日に新日本の後楽園ホール、翌5日には全日本の後楽園ホールを観戦した。

 私は全日本担当記者だったから新日本の後楽園には行ってないが、猪木と記念写真を撮ったり、アマレス時代のライバル、スティーブ・ウイリアムスと談笑したりといいムードだったようだ。そしてテレビ朝日の画面にもバッチリと映っていた。

 さて、私の担当の全日本の後楽園。馬場さんは「来るって言ってるんだから、来るだろ。何時に来る? 知らんよ」と素っ気無い。そして猪木とは違って接触は一切無し。こちらも日本テレビのカメラが捉えていたが、新日本ほどの歓迎ムードは感じられなかった。

 当時の週刊ゴングの発売日は木曜日の10日。今とは違って締め切りが早いから、ここでテンタがどちらの団体に入るのかを記事にしなければならない。私は馬場さんに食い下がった。

「お前はどっちだと思ってるんや? 俺のことはもうわかっとるだろ? だったら感じたように書けばいい」とニヤリ。何も確たる情報はなかったが、この時点で私は"全日本!"と直感的に思った。この年の4月に全日本には輪島大士が入団しているだけに、日本相撲協会のことを考えればテンタに関してはことさら話題を大きくできない。一方の新日本は積極的な絵作りで一発逆転を狙っているように思えたのだ。

 だが、何も具体的な材料がないだけに私の意見は編集部で通らなかった。結果、週刊ゴング112号に掲載された記事の見出しは『琴天山争奪戦は新日プロが断然リード』というものだった。

 そして発売日の10日、全日本は秋田の横手大会でテンタの入団を発表。記事は事実と正反対になってしまった。

「お前はアホやなあ。ちゃんとヒントをやったじゃないか」と馬場さん。この誤報(?)は私にとって本当に悔しいものだった。馬場さんは私が"全日本!"と思っていたこともお見通し。

「お前の意見が通るように、会社の中で力をつけろ」と付け加えてくれた。でも、この一言の方が、当時の私にはよっぽど堪えていた…。


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<第156回>見かけと実像は大違いの蒙古怪人(08.4.30)

 レスラーの中には見かけと実際の人物が全然違う人も少なくない。その筆頭が現在、新宿・歌舞伎町で『居酒屋カンちゃん』を経営しているキラー・カンことキラー・カーン。芸名やリングネームよりも本名の「小沢さん」(小沢正志)と呼んだ方がピンとくる人だ。

かつて"蒙古怪人"と呼ばれたキラー・カーンは192センチ、140キロの巨体を誇り、81年5月に必殺のダブル・ニードロップでアンドレ・ザ・ジャイアントの右足を骨折させて、その名前をアメリカ中に広め、カーンvsアンドレの因縁試合はWWEのドル箱カードになった。私は81年8月に2人の試合をニューヨークMSGで取材している。WWEからNWAに転じた後もテキサスを拠点にトップ・スターに君臨。その地位を捨ててジャパン・プロレス入りしたのは84年12月だ。

 小沢さんは巨体の上にいかにもヒール向けの風貌だったが、実際には神経が細やかで人が良く、どちらかというと気が優しいタイプ。取材を通してそれを知っていただけに86年5月24日の沼津大会で長州、谷津に反旗を翻してカルガリー・ハリケーンズと合体の動きに出た時には驚いたものだ。

当然、当時は全日本&ジャパン担当記者だったから、造反の真意を取材しないわけにいかない。私は2日後の5月26日、小沢さんの家に押しかけた。

「ナニ?…ここまで来るなんて熱心だね」と迷惑そうに玄関に出てきた小沢さんは、いつものフレンドリーな雰囲気ではなく、どこかトゲトゲしい空気を醸し出す。そして、家に上がらせてもらったところで電話が…。

それは娘さんの幼稚園の連絡網だった。当時、小沢さんは奥さんのシンディーさん、2人の娘さんと一軒屋に住んでいたのだ。電話を「ハイハイ」と受けていた小沢さんは「ちょっと待ってて…」と、今度は自らどこかへ電話。

「いつもお世話になっております。"さくら組"の小沢ですけど…」と連絡網をリレー。それが終わると「今の聞いてたよね? じゃあ、いまさら凄んでも仕方ないよねえ」と言うと、いつもの小沢さんに戻ってしまった。どうやらハリケーンズと合体するのを機にイメージチェンジして、取材に来た旧知の私にも凄みたかったようなのだ。

当時、小沢さんは39歳というレスラーとしては微妙な年齢。家庭的にもシンディーさんが日本の生活に馴染めずに悩んでいたようだ。そんな時だけにイメチェンしたかったのだろう。

「組織のぬるま湯に浸った生活の保障より、全米を荒らしまわったキラー・カーンのプライドを大事にしたいんだ。年齢的にも、行動するなら今しかないでしょ」というのが小沢さんの主張だった。そしてこの行動の直後、奥さんと娘さんはアメリカに帰っていった。

 この取材から17日後の6月12日、悪に戻ったキラー・カーンは日本武道館に乱入、追いかける報道陣を追っ払ったが、しばらくしてから他の記者がいないのを確認して控室のドアを開けると「女房と子供…。女房と子供をアメリカに帰しちゃったよ。だって、俺自身、今後どうなるかわからないもんな。ひとりになったから引っ越そうと思ってるんだ」と"恩知らずのキラー・カーン"から"素顔の小沢正志"に戻ってポツリ。

 その後、ヒール道を邁進したキラー・カーンだが、根本の律儀さは変わらず、翌87年春のジャパン・プロ分裂騒動では、最初にジャパン・プロに誘ってくれた大塚直樹氏に筋を通して新日本へは行かないで、アメリカに戻ってしばらく活躍した後、フェードアウトするように引退した。

 3年前の夏、『居酒屋カンちゃん』で久々に小沢さんに会った。「元気だったあ?」という優しい声は昔と全然、変わっていなかった。

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<第155回>ハワイで酒場プロレス!(08.4.23)

 86年5月、私は輪島大士のハワイ特訓の取材に出させてもらったが、前回書いたように規制が厳しく、滞在中に2回しか取材ができなかった。これでは海外出張に出させてもらったのに会社に申し訳ない。ということで、輪島の取材の合間を縫って、ハワイの新団体ハワイ・インターナショナル・プロモーションの取材もした。

 5月15日、電話を入れた上でオフィスへ。出迎えてくれたのはロッキー・ジョンソン&アタ・メイビア夫妻、そしてハワイの往年の名レスラー、プリンス・ネフ・マイアバだ。同団体の代表はロッキー・ジョンソン。ジョンソンいわく「リア・メイビアの団体(ポリネシアン・チャンピオンシップ・レスリング)はギャラの未払いで信用を失って、現地でレスラーを辞める者も多いし、アメリカ本土からもレスラーが来なくなってしまった。ハワイのプロレスの灯を消さないためにも我々が立ち上がったんだ」とのこと。

リア・メイビアはジョンソンの奥さんのアタの母親。つまりジョンソンにとっては義母にあたる。何とハワイで親子によるレスリング・ウォーが繰り広げられていたのである。ちなみにジョンソンとアタの息子は、あのザ・ロック。幼少の頃のロックは、祖母と両親の興行戦争をどう見ていたのだろうか?

 それはさておき、ハワイ・インターナショナル・プロモーションは前述のマイアバ、そして同じくハワイのレジェンド、リッパー・コリンズの全面協力の下、ジョンソンとジミー・スヌーカを2大エースとして30人近いレスラーを抱えていた。さらにアメリカ本土からはジョンソンとスヌーカの人脈でジェリー・モンティ、バディ・ローズ、アレックス・スミルノフ、ビクター・リベラらが参加。毎週金曜日にノースショアのカフク・ハイスクールで定期戦を行ない、2ヵ月に1度はカネオヘのマリーン・ベース(海軍基地)で興行を行なっているという。

「スケジュールが合えば、試合を取材させてほしい」と申し出ると、ちょうど翌日の16日がカネオヘのマリン・ベースでの試合だった。

「マリン・ベースは許可証がないと入れない場所だから、明日の午後5時にリングアナをホテルに迎えに行かせるよ」とジョンソン。約束通りに翌16日午後5時に宿泊していたアラモアナ・ホテルまで若いリングアナが迎えにきてくれた。

「あなたが子供の頃のアイドルは誰?」と聞くと「それはジャイアント馬場さ」と若いリングアナ。かつて馬場さんは日本がオフの時にはハワイで活躍していたのだ。

 そうこうしているうちにカネオヘのマリン・ベースに到着。軍の施設だから一般人、ましてや観光客など入れる場所ではないだけに、これだけでも貴重な経験である。

 試合会場は何とバー。中央にリング、その周りにテーブルが並べられて、ホステスがビールやカクテルを運んでいる。今でこそ、酒場プロレスは一般的になってきているものの、当時としては新鮮だった。81年に3週間、アメリカン・プロレス旅行をした時にも酒場でのプロレスには遭遇していなかった。私がリングサイドで写真を撮っていると、金髪美女がビールを勧めてくれる。それをグイッと一飲みしてから、また写真を撮るというのは日本ではできないことだ。

 ハッキリ言って、リングはお粗末だし、試合のレベルも決して高くなかったが"酒場でプロレス"という非日常空間は理屈抜きに楽しめた。思いがけない経験ができる昔の海外取材は本当に刺激に満ちていたと思う。


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<第154回>ハワイで輪島の初取材(08.4.16)

 1986年4月13日に全日本プロレス入りを発表した元大相撲横綱の輪島大士は同月18日に馬場&タイガーマスク(三沢)と渡米。19日のルイジアナ州ニューオーリンズにおける『世界タッグ五輪』、20日にはミネソタ州ミネアポリスの『AWAレッスル・ロック』の大会を観戦し、21日に第1修行地のハワイへ。馬場の帰国後は日大相撲部、花籠部屋の後輩にあたる石川敬士(相撲時代の四股名は大ノ海)がトレーニング・パートナーとしてハワイ入りした。私が輪島を初めて取材したのが、このハワイ修行の時期だった。

 全日本の輪島ガードは固かった。相撲の現役当時より20キロもウェートが減っていたために、体が完璧に作られるまで裸の写真撮影は禁止だったし、何より輪島に会って話をすること自体、至難の業だったのだ。

 このハワイ修行の取材許可が出たのは私と東京スポーツのM記者のみ。当時、週刊プロレスは全日本から取材拒否を受けている時期で、この取材拒否を題材にした『いじめられ日記』で「全日本のオメガネにかなった週刊ゴングと東京スポーツの記者だけは取材を許された」という皮肉ったニュアンスの記事を書いていたが、これには腹が立った。私は私なりに輪島の取材ができるように、いろいろと根回しをしていたし、それまで全日本担当記者としてやってきた上での信頼だと自負していたからだ。

 さて、いよいよ輪島との対面。子供の頃にテレビで観ていた大横綱だけに緊張したが「日本では知らなかったけど、こっちに来てからバスの乗り方を覚えたんだよ。定期も買ったんだ。買い物だって、ひとりでいけるようになったんだよ」と、ちょっと自慢気にザ・バスの定期券を見せてくれるなど、気さくな人だった。

「ああ、やっぱり大横綱だったんだなあ」と思ったのは一緒に食事をした時。メニューを見ることなく「適当に頼んでくれ」と石川に一言。料理の注文は付人がやるものなのだろう。ただ石川も極力、輪島に自分でやらせるようにはしていた。例えば、自分のバッグが置いてあってもそのまんま。ここで石川はあえて放っておく。すると輪島はハッと気づいたように「ああ、そうか。自分で持たなきゃな。俺もプロレスでは新弟子だから」と慌ててバッグを持つという具合だった。

 私のハワイでの取材時間は3日間だったが、輪島と接触できたのは3回だけ。そのうち1回は食事をしただけで、取材はたったの2回だけだった。1回目の取材はアラモアナ・ビーチパークのマジック・アイランドでの石川とのトレーニング。砂浜でのランニング、スクワット、プッシュアップといった基礎トレをこなした後、ビーチに土俵を描いての相撲。さすがに立ち合いの時の輪島の顔は迫力があった。目がギラリと光って格闘技者そのものなのだ。そして決まった左腕からの下手投げ! 子供の頃に観た"黄金の左"をナマで見られたのだから感激モノだ。

 そして2回目…つまりラストの取材はイリカイ・ホテルのプールサイドでセッティングしてもらった輪島&石川対談。あとは、勝手に接触するのは禁じられたし、どこのコンドミニアムに住んでいるのかも教えてもらえなかった。取材許可が出たとはいえ、それほど全日本は神経質になっていたのである。

 だが、3回だけの接触でも私は輪島大士という人に好感を持った。国技の頂点に立った人が38歳になって、本気で違う世界に飛び込もうとしている姿を見たからである。私生活でも横綱体質を変えようとしているのもわかった。

「今は朝9時に起きて10時から約2時間、クラークハッチのジムでトレーニングして、その後は食事と昼寝と日なたぼっこ。午後4時から部屋で馬場さんから頂いたプッシュアップ台なんかを使ってのトレーニング。そして晩飯を食って寝るっていう毎日だな。タカシ…じゃなかった石川クンはプロレス界では先輩なんだから、いろいろ話を聞いて、体で一から教えてもらって頑張ろうと思ってるよ!」と笑う輪島は眩しく見えた。

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<第153回>輪島大士、プロレス転向(08.4.9)

 1986年の春、超大物が私の取材対象になった。それは大相撲第54代横綱の輪島大士である。

 輪島の全日本プロレス入りは、まさに晴天の霹靂だった。4月8日発行の日刊スポーツが1〜3面ぶち抜きで『輪島プロレス入り!今週中に発表、今月米国修行=馬場の全日本、12月デビュー』とスクープしたのだ。

7日に東京・永田町のキャピトル東急ホテルで馬場と輪島が、輪島側の後援者と会談の場を持って、その席で輪島サイドからプロレス転向に関する打診があり、それに対して馬場がプロレス界の状況などを詳しく説明したということだったが、私は輪島のプロレス入りをまったく知らなかった。これは全日本&馬場番記者だった私にとっては大きなショックだった。 当時の週刊ゴングの発売日は木曜で、校了は月曜。日刊スポーツがスッパ抜いた8日は火曜日だったから、10日発売号では輪島のプロレス転向に触れることはできず、完全に1週間遅れになってしまった。

 ちなみに当時のプロレス・マスコミ事情を書くと、日刊スポーツが朝刊スポーツ紙でいち早く全国紙版でプロレスを扱うようになった時期で…このスクープは全日本から日刊スポーツへのご祝儀だったとも考えられる。私はもちろん、プロレス報道の老舗だった東京スポーツのショックも大きかったようで、この一件を契機に他部署に配属されていたベテランの川野辺修記者が全日本担当記者としてカムバックしてきた。

 さて、とにかく輪島情報を一刻も早く掴まなければならない。4月11日、長崎国際体育館の取材に行った私は、試合後に馬場さんのホテルに押しかけた。さすがに馬場さんもすまなそうな顔で「あたかも7日の会談で輪島のプロレス入りが正式に決定したように書かれているけど、そういうことじゃないんだよ。あの場では、プロレスラーになるための心構えや受け入れ側の条件を説明して"それでも一からやり直す気があるなら来なさい"と言っただけ。それに対して輪島も"考えさせてもらいます。後援者の人たちとも、よく相談しなければなりませんので…"という返事だった。だから"今週末の12日には熊本にいるから、それまでに返事をくれ"と言っただけなんだ」。そして最後にポツリと「明日、正式に発表するけど13日にキャピトルで記者会見をやるから。まあ、それで今回の件は勘弁してくれ。その後の取材の段取りもつけてやるから…」。

 この輪島のプロレス転向は水面下でいろいろあったのだと思う。4月13日午後5時半からキャピトル東急ホテルで輪島大士のプロレス転向に"関する"記者会見が行なわれ、その席上で馬場さんは「先日、一部の新聞に出ていましたが、その日(7日)に決まったのではなく、今日の午後4時から彼の後援者と会見をいたしまして、実際にはそこで決定したので、よろしくお願いします」と挨拶したのだ。恐らく"後援者の了承を得て"というのが条件だったのだろう。

 そして馬場さんは約束を守ってくれた。輪島がプロレス修行のために渡米する前日の4月17日にキャピトル東急ホテルで単独取材の時間を作ってくれたのである。ただ、輪島大士と言えば国民的大スター。さすがにいきなり若造の私が取材するわけにはいかない。インタビューは竹内さんにお願いした。私が実際に輪島を取材するのは、それから1ヵ月後、ハワイでのことだ。


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<第152回>22年前の台湾遠征…その夜、世界はひとつに(08.4.2)

 1986年2月、私は84年5月の旧UWF戦士ハワイでのフリー宣言取材以来、2度目の海外出張に行った。前回はスキャンダラスな問題を取材するものだけに気が重かったが、今回は全日本プロレスの台湾遠征に同行という楽しい取材。2月13日〜18日の5泊6日=4試合(14&15日=高雄市立体育館、16&17日=台中市省立体育館)に記者&カメラマン兼用で同行した。こういう時に高校時代に写真部だったことが役立つわけだ。

 いざ出発! ひとり気の毒だったのはタイガーマスクだった三沢光晴。当時の三沢は常にマスク着用を義務付けられていたため、台湾に向かう飛行機の中でもタイガーのままなのだ。だが、高雄空港に到着して入国審査の際にはマスクを脱がなければならない。マスクを脱ぐ三沢を後方から興味深げに見る観光客。「何かさあ、人前でパンツ脱ぐより恥ずかしかったよ」  と、三沢はボヤくことボヤくこと。

 到着するや、我々一行は過密スケジュールに追い立てられた。空港から大統百貨公司に直行して記者会見。何か力道山時代に来日した外国人レスラーの気分だ。この記者会見が終了して、やっとホテルにチェックインしたと思ったら、2時間後には歓迎パーティーの食事会。ありがたく思わなければいけないが、本場の高級な中華料理はどうも口に合わなかった。

正直に書いてしまうと、これが毎晩続いたから胃腸はギブアップ。何日後かの昼間に三沢、仲田龍リングアナと普通のレストランを見つけてスパゲッティ・ミートソースを食べた時にはホッとしたものだ。

 翌14日には朝8時にホテルを出発して高雄市議会、高雄市庁舎、台湾体育会理事長・陳聡敏氏を表敬訪問、その後に高雄市立体育館で記念すべき第1戦というスケジュール。出場選手は全日本全員、外国人選手としてジャイアント・キマラ、カール・フォン・スタイガー、キニー・ポポ、ロパティ・ツィサオ、さらに地元からライオン・キングだ。

 ちなみに台湾では1980年に『職業捧力(プロレス)の禁止』が法令で定められていたために、チャリティー大会だったように記憶している。そして地元の人はプロレスを知らないから、試合前にルールを丁寧に説明して、試合中も観客にわかるように和田京平レフェリーが身振り手振りを交えてのレフェリング。この時に改めて京平さんの巧さを知った。

 試合で人気があったのは如意安得馬場=巨人馬場(チューレン・マーツァン=ジャイアント馬場)、多愛我馬斯克=虎面人(タイガーマスク)、唯一の台湾出身レスラーのライオン・キング。台湾の人は親日家で馬場さんのことを知っている人は多かったし、空中殺法を駆使するタイガーは大人気。さすがの鶴田&天龍もタイガー人気には勝てず、天龍が「おい、三沢、俺にもマスクを貸してくれよ」とボヤくほど。

 だが、タイガーこと三沢はマスクによって不便なことが多かった。その翌日からも試合前にはあちこちに表敬訪問に行ったが、場所によってはマスクを被っている三沢は入れないのだ。そんな時は、ひとりでバスに待機するしかないのである。これは可哀相だった。

 肝心の大会の方は、4大会平均で観客動員は5千人と半分の入り。現地の諸事情で宣伝が行き届いていなかったのが辛かったが、お客さんの反応は上々だったと思う。

 18日、台北における最後の夜。馬場さんが「俺は台湾でのギャラはいらんから、それで大パーティーだ。無礼講だぞ。飲まん奴は減給や!」と言い出して大宴会に突入。中華料理、ビール、紹興酒がズラリと並んでマイティ井上、ミスター林、天龍が自慢のノドを披露、最後は馬場さん夫妻、選手、マスコミ、地元の関係者が手を取り合って東京音頭を踊り、まさに世界はひとつ! 最後の最後は当然の如くイッキ飲み大会になって、翌朝に記憶がハッキリしている者は誰もいなかった…。

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<第151回>馳浩&新倉史祐とお買い物!(08.3.26)

 若手レスラーが海外修行に出るのは、担当記者にとって嬉しいものだ。まだ受け身も取れなかった若者がプロとしてデビューして成長し、何年間か海外に行ってスター・ムードを身につけて帰国する。それまでは呼び捨てで呼んでいたのが、少なくとも公の場では"さん付け"で呼び、敬語で話すようになる。それが我々、マスコミの礼儀。嬉しくて寂しいような妙な気分にさせられるものなのだ。

 86年2月、2人の若手レスラーが海外修行に出発することになった。ジャパン・プロレスの新倉史祐と馳浩である。

 新倉さんのデビューは私のゴング入りより遅かったが、4歳も年上だったから当初から"くん付け"ではなく「新倉さん」と呼んでいた。新倉さんは気さくなアキニといった感じで「小佐野くん」と可愛がってくれた。

そして馳センセーは私と同じ年。私は「馳くん」と呼んでいたが、馳センセーは私を立てて「小佐野さん」と呼んでくれていた。ちなみに今は「馳センセー」「小佐野さん」と呼び合っている。

 馳の場合は高校の教師だっただけに普通の若手とは全然、違っていた。ある時、ジャパン・プロの合宿所に行ったら歌を詠んでいる最中だったし、とにかく読書家。新聞も政治家を志す前から、片っ端から読んでいた。

「巡業に出るでしょ。そうするとバスと会場の毎日で、自分がどこにいるかもわからなくなっちゃう。それじゃあ馬鹿になりそうじゃないですか。せめて本や新聞ぐらいは読まないとね」。

 そんな馳と新倉のプエルトリコ修行が決定したのは86年1月。ちょうど全日本の『ニューイヤー・ウォーズ』中のことだった。タイガー服部レフェリーから「馳と新倉のパブリシティ用の写真が欲しいから、シリーズが終わったら2人を連れてプエルトリコ用のギミックを買いに行ってくれないかな?」と頼まれた。

 シリーズ・オフ。私は馳、新倉を連れて浅草の仲見世通りへ。やはり日本的なギミックと言えば、浅草でしょう!

 2人ともノリノリ。絶対に日本人が着ないようなド派手が土産用のハッピ、日の丸、刀、面…まるで、オノボリの外国人観光客のように買い漁る。そして買い物が終了したら、スタジオに行って撮影だ。

 できあがった写真を見て、満足気な私、馳、新倉の3人。後日、自信満々で出来上がった写真を服部さんに持って行くと、 「ウーン…何か、コテコテ過ぎるよなあ。今の時代、こんな日本人レスラーをイメージするアメリカ人はいないよなあ」  とブツブツ。結局、2人のコスチュームは日の丸が刺繍されたスポーティなパンタロン風のタイツになった。

 2月24日、2人は晴れてプエルトリコに出発。現地に着いてからは、よく手紙をくれた。馳の手紙の最後には、必ず「何か本を贈ってください」と書かれていたが、現地のことを詳しくリポートしてくれるので、記事を書くのには大いに助かったものだ。

 正直に書くと…馳は達筆、新倉は子供のような字。ある時、ゴングの誌面に新倉からの手紙を載せたら、しばらくして新倉から「今度、載せる時があったら馳の手紙にしてください」と書かれたハガキが送られてきた。今となっては笑い話である。


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