<第150回>着物に刀で特写!23年前の長州取材裏話(08.3.19)

 昨年10月発売のGスピリッツvol.02の長州大特集は「これまでとは違う斬口」ということで好評をいただいた。普通、長州を扱う場合は噛ませ犬であったり、維新革命であったりするが、Gスピでは革命以前の長州、全日本時代の長州、全日本から見た長州を検証した。そして締めは編集長の清水氏と私がタッグを組んでのインタビュー。インタビューとはいっても実際には無礼講の世間話のようなもので、私の長州への口のきき方がなってないというような声もあったようだ。文章になったものを読んでみると、確かに気軽な物言いをしている部分があった。でも、それはお許し願いたい。それだけの年月、私は長州を取材してきたし、こうやって自然体で喋れるようになるまでにはいろいろなことがあったのだ。

 時は遡って23年前の1985年12月。ゴングが週刊化されて2度目の新年号となる1986年新春合併号の表紙&巻頭グラビアは正月ムードに引っ掛けて、長州に着物を着せ、刀を持たせたスタジオ特写をやろうということになった。

「これはいいぞ!」と盛り上がるのはいいが、大変なのは全日本番&ジャパン・プロ番を務め、もちろん長州番でもある担当者の私だ。当時の長州は、新日本の維新軍時代よりも取材がしにくかったのである。普通、スタジオ撮影となると、アシスタントとして何人かの記者が付くのだが、"触らぬ神に祟りなし"とばかりに、この撮影に立ち会ったのは私、小道具調達担当の原正英記者、そして今はフリーになって他社で活躍しているOカメラマンのみという状態。

 私はひとりで東京・池尻のジャパン・プロレス本社に行って、忘年会から帰ってきたばかりの長州を車に乗せてスタジオへ。車中の長州は「面倒臭ぇなあ。忘年会で疲れてるから、早めに終わらせてくれよ」と、ちょっと不機嫌。この日の撮影は普段より時間がかかる凝ったものなのだが…。  スタジオに到着して早速、着替え。長州の体にピッタリな羽織袴に刀、そして正月気分を盛り上げる大凧。こうしたものを用意したのは原正英記者。その人脈は、さすがに浅草の老舗佃煮屋の息子だけのことはある。

 着替えて刀を手にした長州は、物珍しさもあってか上機嫌。だが、スタジオ撮影は時間がかかる。ライティングのセット、露出のチェック、テスト撮影…いつ長州が飽きてしまうかハラハラものだった。そして、いよいよ本番。刀をサッと鞘から抜いて振り抜くカットを撮ろうということになったが、なかなかサマにならない。

剣道の心得があるOカメラマンが「あーっ、長州さん、そうじゃないんですよね。こう、ですよ。こう!」と熱心に指導。「んっ? こうか? こうか?」と一生懸命やっていた長州だったが「お前さ、俺に指図するのか!? 今度、指図したら撮影は終わりだ!」とキレてしまった。これを見て、付き添いでスタジオに来ていたリキ・プロダクション(今のリキプロではなく、長州の芸能マネジメント&グッズ販売をやっていた会社)の加藤専務が「スタジオ撮影でこれかあ。テレビのロケが思いやられるなあ…」と溜息。実は、長州はTBSのドラマ『セーラー服通り』に長田薫なる体育教師としてのゲスト出演が決定していたのだ。

 今になると、笑い話だが、それほど当時の長州はピリピリしていてマスコミ泣かせだった。最近では長州に「○○の時は××でしたよねえ」と昔話を振ると「もう忘れた。昔の話をしたってしょうがないじゃない」と苦笑するばかり。

「あの頃はさ、我々もマスコミも…俺も小佐野も間違いなく同じ橋を渡っていたよな」とポツリと漏らした一言は、当時を取材していた者として嬉しい言葉である。

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<第149回>全日本から初めての取材拒否!(08.3.12)

 86年に週刊プロレスが全日本プロレスに取材拒否をされ、週プロの記者がチケットを買って全日本の会場に潜入して邪険にされることを面白おかしく書いた『いじめられ日記』なる連載をやっていたことがあるが、週刊ゴングの全日本担当記者だった私は、それより1年も早く"個人として"取材拒否を食らったことがある。

 それは85年7月のこと。欠場していた三沢タイガーの本当の怪我と本音を単独インタビューという形で掲載し、馬場さんの逆鱗に触れてしまったのだ。

 同年6月21日、三沢タイガーは小林邦昭とのシングルマッチに敗れた。これがタイガーマスクとして初黒星だったわけだが、虎のマスクを着けて再デビューからわずか10ヵ月で三沢の体はボロボロになってしまった。初代の佐山聡より大柄であるにもかかわらず、タイガーとしての空中殺法を義務付けられ、左膝は血が溜まり過ぎて曲がらなくなり、右肘は神経の脱臼、左肘は骨が少しずつ砕けて、その破片が関節に溜まっている状態だった。だが、昔から余計なことを言わない三沢は、そんな状態でもタイガーマスクとしてのファイトを黙々と続け、遂に小林邦昭との試合でパンクしてしまったのである。

 試合後、馬場さんは「次のシリーズは膝の完治と出直し修行の意味をこめて欠場させる。生まれ変わった虎となるまで帰ってくるな」とコメント。その裏には両肘と左膝の治療とヘビー級に肉体改造をさせるプランがあったわけだが、馬場さんは、軽傷の膝の怪我を公表しただけで、深刻だった両肘については一切、公言しなかった。そして、わずか2週間後の7月8日には「8月31日の両国でタイガーと小林の再戦を行なう」と発表したのである。

 当時、23歳の若さだった私は、こうした一連のことにカチンときていた。私はボロボロになりながらタイガーマスクを演じ続けてきた三沢を間近で見ていたし、8月31日の復帰も本人は知らされていなかったのである。

「タイガー(当時、私は三沢をこう呼んでいた)は道具じゃない。自分の意思を持った人間なんだ!」と、私は馬場さんに反発を覚え、三沢の本当の怪我と「リング復帰は僕自身が決める」という三沢の本音の言葉を全日本の了承を得ていない電話インタビューという手法でまとめたのである。

 今、思えば、これは完全にルール違反。三沢の本当の怪我を公にし、しかも本人が両国大会出場について曖昧なコメントをしたと報じたら、営業的に迷惑をかけることになる。ただ、当時はそんなことには頭が回らず、単純な正義感で記事を書いてしまった。

 この記事が出てすぐに私は取材拒否の通達を受け、さらに馬場さんは自宅マンションでタイガーと記者会見を行なって「実はタイガーはウチの地下にあるトレーニング場で秘密特訓を行なっていた」と発表。アッという間に私の記事を打ち消してしまった。馬場さんに勝てるわけがないのだ。

 その後、三沢から「小佐野クン、大丈夫?」と電話をもらい、三沢から馬場さんに詫びを入れてくれて、3日もしないうちに取材拒否は解けた。「三沢のために!」と思いながら、結局は三沢に迷惑をかけてしまっただけであった。

 だが、馬場さんはやはり器が大きい人だった。 「お前な、何を書いても構わんが、周囲のことをよく考えて書かんと駄目だよ。それに俺に言いたいことがあったら、直接、言ってこい。それだけや。この話は、これでおしまい」  とだけ言って、あとは何事もなかったように普段の馬場さんに戻ってくれた。

 8月31日、怪我を完治させ、体も一回り大きくなったタイガーは小林邦昭からNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座を奪取。その2ヵ月後にはベルトを返上してヘビー級に転向した。


第148回 時代が早すぎたカルガリー・ハリケーンズ(08.3.5)


 現在、新日本でレジェンド軍のひとりとして活躍しているスーパー・ストロング・マシン。彼は私にとって思い入れの強いレスラーのひとりだ。

私はマシンに会うと、ついつい「キャプテン!」と呼んでしまう。今から22年前の1985年夏…スーパー・ストロング・マシンはヒロ斎藤、高野俊二(拳磁)と共に新日本を飛び出してレスラー・プロダクションのカルガリー・ハリケーンズを結成、そのキャプテンに収まっていたのである。

 私が高校時代に新日本プロレスのファンクラブを主宰していたことは以前に書いているが、若手の中で●田(つまりマシンの正体)さんとは、あまり馴染みがなかった。●田さんは物静かな人だったのだ。

 そんな●田さんと私の接点は、のちに共通の友人ができたこと。私はその友人から●田さんの人となりを、●田さんは私の人となりを聞いていたようで、何となく昔からの知り合いのような感覚になっていた。

 私がマシン(ここからはリングネームで)と本当に親しくなったのは、マシンが85年8年8月に新日本を飛び出してから。同月5日、大阪城ホールにおけるジャパン・プロ興行で長州が「もう馬場、猪木の時代じゃないぞ! 鶴田、藤波…俺たちの時代だ!」と宣言した時にマシンがリングに駆け上がったが、その4日前にマシンは「仕事じゃなくてプライベートで…」とゴング編集部に私を訪ねてきてくれたのだ。

「魅力のない藤波に、終わりなきマシン軍団との抗争…今の俺には闘いのテーマが見出せないんだ」
「近々、みんながアッと驚くことが起きるかも」

取材ではなく雑談だったが、新日本への不満をぶちまけて、
「プライベートで来たけど、プロレスに関する話だったら記事にしてもいいよ」。

だが、こんな早く行動を起こすとは思ってもいなかった。うがった見方をすれば、誰かがマシンを私に会わせる意図があったのかも…。それはともかく、この行動4日前の言動を8・5大阪城ホールを掲載した週刊ゴング第66号に載せることができたのは大きかった。

 ヒロ、俊二とカルガリー・ハリケーンズを結成したマシンのターゲットはジャパン・プロと全日本。両団体の担当記者だった私の取材対象になった。ハリケーンズの取材は楽しかった。前年秋に帰国したヒロちゃんは私がこの業界に入った時に、同い年だったこともあって最初に親しく喋れるようになったレスラーだったし、年月を経てもまったく変わらず接してくれた。俊二は時間にずぼらなトンパチだったが、素直な性格で好感が持てた。俊二が千葉の合宿で作ってくれた特製カレーはまいうー!

 今、思えば…ハリケーンズは現在のマット界のフリーの素のような存在だったが、時代が早すぎた。当初、上がれるリングはジャパンの自主興行に限られ、全日本にも上がれるようになったのは、新日本&テレビ朝日との問題がクリアーされた翌81年4月だった。

「クソー、俺らの若い力を政治力で潰しにかかりやがって!」
 というマシンの怒りに満ちた声は今も忘れられない。

若い時には反社会的なものに惹かれてしまうもの。あまりにもハリケーンズの取材に力が入りすぎて、会社の上から怒られてしまったのも懐かしい思い出だ。


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<第147回>鶴田が緊急入院!のちに知った重大な事実(08.2.27)

 85年の全日本マットは全日本プロレスvsジャパン・プロレスの対抗戦で大いに盛り上がった。その主軸は天龍vs長州だったが、遂にジャンボ鶴田の出番となり、8月5日、大阪城ホールで鶴田vs長州の頂上対決が決定!

 だが、戦いの神はいじわるなもので、そう簡単に2人をリングに立たせなかった。何と試合当日の5日朝に鶴田が入院、緊急手術を行なうことになってしまったのである。

 理由は右肘負傷の悪化。正式病名は変形性肘関節症急性悪化、遅発性尺骨神経麻痺。「このままでは腕が曲がらなくなる」という状態での入院だった。

 その連絡が週刊ゴング編集部に入ったのは前日4日の夜。私は違う仕事で徹夜作業をしていたが、ほとんど寝ないで午前8時に東京・信濃町の慶応大学病院に駆けつけ、その取材が終わると新幹線に飛び乗って大阪に向かった。大阪では急遽、お客さんの投票によって長州の対戦相手を決めることになり、長州vs谷津のジャパン同門対決が実現。試合後には長州が"俺たちの時代"を宣言し、これに新日本を離脱したスーパー・ストロング・マシンが共鳴するという新たな展開が生まれた。

 鶴田の手術は同日午後1時30分から約3時間で無事終了。だが、問題は肘ではなかった。実は検査の過程でB型肝炎のキャリアであることが確認されたのだ。軽い慢性肝炎の兆候も出ていたという。もちろん当時は、この事実は公表されなかった。

 鶴田は86年後半頃からインターフェロンの投与を開始し、オフ期間中の月に1〜2回の頻度で投与を続けたそうだ。だが、その甲斐もなく92年春に発症してしまった。

 私がこの事実を知ったのは、鶴田さんが2000年5月に亡くなってしばらくしてからのことだ。B型肝炎のキャリアだと判明してから実に15年後のことである。

 85年の肘の手術3日後にお見舞いに行った時には、 「小学校4年生の時に盲腸で入院して以来の病院生活だから気が滅入るというか、ショックだね(苦笑)。規則正しい生活に慣れるのが大変。でもいい機会だから、体中を全部チェックしてもらって、何の不安も心配もない状態でリングに上がろうと思っているよ」  と言っていたし、それ以後も自分の病気のことなど口にしたことはなかった。復帰してからはシリーズ中の巡業では酒も飲んでいたし、普通の生活をしていたと記憶している。そして何より変わらず明るかった。

 今、振り返ると、そうした体だったにもかかわらず、長州と60分フルタイム戦ってケロッとしていたのだ。また天龍と全人生を賭けたような鶴龍対決をやっていた。そして三沢の大きな壁となって全日本の大エースに君臨していたということになる。

 いまさらながらジャンボ鶴田は日本最強のプロレスラーであり、正真正銘の怪物だったとつくづく思う。

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<第146回>阿修羅・原との出会い(08.2.20)

 私がプロレス業界に足を踏み入れたのは1980年春。この28年間に影響を受けたレスラーは何人かいるが、阿修羅・原さんの存在は大きいそのひとり。彼が88年12月に全日本を解雇された後、91年8月にSWSでカムバックする時には私が一役買ったが、取材対象を超えて、本当に人間として大好きだった。

 その原さんを本格的に取材するようになったのは84年4月3日の山形県立体育館の長州VS石川戦に乱入して"ヒットマン"と呼ばれるようになってから。阿修羅・原は前年10月20日の下関大会を最後に消息を絶ち、自ら興行を手掛けていた2日後の22日=長崎県立体育館大会をすっぽかすという不祥事を起こしていた。

 私はその年の5月から全日本担当記者になっていたから、もちろん原さんとも何度か会話をしたことはあるが、担当になって半年弱、しかも年が一回り以上も上の人だったから親しく話をするということはなかった。

 だが"ヒットマン"として時の人となったからには取材対象として食らいつくしかない。2度目の乱入となった4月17日の神戸ワールド記念ホールでガードマン控室に飛び込んだところを、私もドアが閉じられる寸前に潜入することに成功し、単独取材した。

 じっくり話をしてみると、荒々しいイメージとは裏腹にピュアなスポーツマンという印象を受けた。
「一度はプロレスを辞めようと思った俺がこうして出てきたのは、テレビで長州と天龍の激しい試合を見て、俺もこういう真っ白になれるようなガムシャラな試合がしたいと思ったんだよ。ある人を通じて馬場さんと話をしているんだけど、らちがあかないから、こういうやり方をしているんだけどね。俺は熱い試合がしたいだけなんだよ」
 と原さん。そして連絡先まで教えてくれた。

 だが、いつ乱入してくるかわからないヒットマンと簡単に連絡がついてしまっては話にならない。当時の記事としては、長崎在住の阿修羅のスポンサー、坂上弘紀氏(女優・坂上香織のお父さん!)を通じて阿修羅とアポを取っていることにしていた。

 坂上氏からの情報ということで週刊ゴング第54号では自然の中で自主トレする阿修羅・原を特写したが、
「本当はこんなことよりも科学的なトレーニングの方がいいに決まっているんだよ。人間は持っている能力の何パーセントも出せないでいる。それを引き出すトレーニングが重要なんだよね」
 と原さんは笑っていた。元々はラグビーの世界選抜に選ばれたトップ・アスリート。根性論よりも科学的なスポーツ理論を重視していたのだ。そういえば、 「頑張りますとか一生懸命なんて当たり前。どう一生懸命頑張って成果を出すかが重要なんだよ」
 とも言っていた。そうそう「ヒットマンでもいいけどさ、スナイパーの方がカッコイイなあ」とも言っていたっけ。

 それからは、どこかの会場に原さんが乱入する。それを追いかける私。原さんはいつも最後に「○○ホテル…」と小声で言ってから去っていった。元々、寂しがり屋だけに孤独に耐えられなかったのだろう。その後に全日本の選手や関係者に見つからないように密会して(?)一緒に食事をしたりしたものだ。

 そんな阿修羅・原が望んでいた真っ白になれるような試合ができるようになったのは、それから3年後…87年6月4日、名古屋で天龍と合体して龍原砲を結成してからである。ここから私は天龍源一郎、阿修羅・原というレスラーを真っ白に…ピュアになって追うことになる。


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<第145回>馬場さんのプライドを傷つけた記事(08.2.13)

 ジャパン・プロレスの参入によって1985年初めには日本マット界を制圧してしまうような勢いを誇っていた全日本プロレスが、思わぬところで新日本のシッペ返しを食った。看板外国人選手のひとりだったブルーザー・ブロディを引き抜かれたのだ。

 ブロディは同年2月22日〜3月14日の『激闘!エキサイティング・ウォーズ』に参加したが、異様にピリピリしていた。リング外では紳士のはずなのに我々、マスコミに対して暴言を吐いたり、物を投げつけたりと明らかに様子がおかしかった。リング上では3・9両国国技館における長州とのタッグでの初対決で、長州の髪を掴んで引きずり回して一方的に攻め立て、最終戦の3・14名古屋では試合の途中にチェーンを振り回して控室に戻る事実上の試合放棄をやってのけている。

 そして1週間後の3月21日、新日本の後楽園ホールにベートーベンの交響曲第五番『運命』に乗って出現したのである。ブロディは4月19日〜同25日まで全日本の『激烈!スーパーパワー・ウォーズ』に特別参加することが決定していたから、これは電撃的な新日本の引き抜きであった。ブロディは新日本を新天地に選んだ理由としてマッチメークの不満を上げたが、確かに『激闘!エキサイティング・ウォーズ』では長州が主役になり、外国人選手でも新時代のエースとしてロード・ウォリアーズが初来日しており、ブロディの高いプライドが傷つけられていたのは明白だった。だからこそイライラしてマスコミにも八つ当たりしていたのだろう。

 さて、こうなると引き抜かれた側の全日本プロレスの担当記者の私も忙しくなる。全日本の反撃策を取材しなければならないのだ。

 ブロディの新日本登場を報じた週刊ゴング第46号では『新日プロのブロディ引き抜きを許した全日プロの誤算 果たして馬場の反撃作はあるのか?』という記事も掲載されたが、これが馬場さんの怒りを買ってしまった。ちなみに、この記事は私が書いたものではないし、内容的にもさほど目くじらを立てるようなものでもなかったと思うが、馬場さんがこだわったのは"誤算"というフレーズ。馬場さんに言わせれば「誤算などない!」ということになる。

 81年に勃発した引き抜き戦争でもブッチャーを引き抜かれた後にシン、ハンセンを相次いで抜き返して勝利し、この前年には長州以下、大量の選手を獲得(実質的に引き抜いたのはジャパン・プロ)したジャイアント馬場にしてみれば、この事件はプライドを大いに傷つけられたに違いない。そして週刊ゴングの見出しは、さらに刺激したというわけだ。

 さて怒った馬場さんをどうするか? 全日本担当になって丸1年…私もしたたかになっていた。「では、この問題を馬場さんがどう捉えているのかインタビューさせて下さい」と申し込み、3月30日の『激烈!スーパーパワー・ウォーズ』開幕戦の前に後楽園ホールがあるビルの2階の喫茶店でインタビューさせてもらった。

 人は怒っている時の方が普段より本音が出る。いつもは穏やかな馬場さんの口から、
「まあ"やれば、やられる"のが、この業界の鉄則…新日本も、ある程度、覚悟しているんじゃないの」
 などの過激な言葉を引き出すことができた。このインタビューは週刊ゴング第47号に載ったが、それまではコメントを貰って記事を書いていたものの、純粋な馬場さんのインタビュー記事はこれが初めてだった。

 言葉にデリケートな馬場さんは、インタビュー取材にはうるさい人だった。当時、週刊プロレスのインタビューは評論家の菊池孝さんが聞き手でない限りは受けなかったほどだ。そんな中で怒っていながらも、私のインタビューを受けてくれたのは嬉しいことだった。今振り返ると…この頃から馬場さんは、私に本音でいろいろと喋ってくれるようになったと思う。


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<第144回>長州の取材に四苦八苦(08.2.6)

 85年1月の『激突!オールスター・ウォーズ』から長州らのジャパン・プロレス勢が全日本プロレスに参戦。ここで担当記者として苦心したのは長州の取材だった。今でこそ、古くから知っているということでちょっとした軽口を叩くこともできるが、当時は私にとっては苦手レスラーの筆頭。それには月刊誌時代に取材に引っ張り出すのに大変だったという記憶があったからだ。

さて、私が初めて長州と会話したのは…まだ高校生時代。以前にも書いたが『炎のファイター』という新日本プロレス・ファンクラブの会長をやっていた時に会報用のインタビューをしたのが最初である。そしてこの業界に入って初めて単独で取材したのは、維新革命を起こして1年…83年12月16日のことだった。当時の長州は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。この取材の数日前にはフジテレビの『笑っていいとも』にも出演していたし、この年のベストバウト賞(4月3日、藤波戦)、最高殊勲選手賞のダブル受賞しており、維新軍の全盛時代だったと言っていい。そんな勢いがあっただけに、ただでさえ取材嫌いなのが若造記者など相手にするはずがない。

 ところが月刊ゴング84年2月号(83年12月27日発売)で長州を連れ出して特写しようということになり、その担当がなぜか私に回ってきたのだ。ロケ地は維新にちなんで西郷隆盛像がある上野公園に決定した。

 さあ、問題は長州にウンと言わせること。携帯電話がない時代だから、自宅に電話を入れるしかない。取材は暮れでも勝負は『第4回MSGタッグ・リーグ戦』で巡業に出る前にアポを取り付けておくことである。高校時代に無愛想にされたトラウマはあったものの、仕事と割り切って電話を入れる。

「何だよ、寝てたよ! 取材? 俺は忙しいんだ!」  ウーン、案の定の答えだ。こうなると私も意地になってストーカーと化した。シリーズが始まる直前まで毎日のように「もう、スケジュールは決まりましたか?」と電話。面白かったのは、いつも「寝てたよ!」から会話が始まるのだ。そして、段々と、
「シリーズが終わったら一般誌の取材が入っているけど、お前の取材も考えてやる」
「実は『笑っていいとも』に出る話があるから、その出演日が決まらないと、お前の取材を受ける予定が立たな…あっ、余計なこと言っちゃったな。『笑っていいとも』のことは誰にも言うなよ!」
 と気のせいか軟化してきた。しかし取材日が決まらず、遂に巡業に突入。私は最終手段としてシリーズ最終戦…つまり83年最終戦の12月10日、愛知・刈谷大会まで行き、維新軍団の控室で直談判。結局は「だったら、自宅まで迎えに来い!」と長州が根負けする形で12月16日の取材となった。

 当日、当時の長州の棲家だった目黒のマンションまで迎えに行き、そのまま上野公園へ。ここ1ヵ月近くのコミュニケーションによっていいムードで取材は進んだのだが、気付いたら「あっ、長州だ!」と黒山の人だかり。
「おい、お前! こんな人が集まっちゃって…この責任をどう取るんだ!!」
 と激怒する長州。慌てて長州をタクシーに乗せて取材はジ・エンドとなった。

それから丸1年を経てのジャパン・プロレス担当記者としての長州の取材。この頃の長州の取材嫌いはまさにピーク。ジャパン・プロに移籍した当初の事務所での取材などは渋々でも大抵は受けてくれていたが、いざシリーズの巡業が始まると、問題になるのは控室の取材だ。

 ちなみに現在は、ほとんどの団体が控室の出入りは禁止になっている。試合前の取材は練習中に声をかけるか、若手レスラーか、フロント関係者に頼んで控室の外まで呼んでもらうしかない。

 ところが昔は基本的に出入り自由。"基本的に"というのは、顔がモノを言う時代だったからだ。顔が利くベテラン記者なら問題なくOK、レスラーが顔を覚えていないような若い記者は、ほとんど「駄目、駄目。入ってきちゃ!」ということになる。

 私は長州らが全日本に参戦した時、全日本担当記者になって8ヵ月経っていたから、すでに控室に自由に入れる立場になっていた。ジャパン・プロのレスラーも昔から知っている人ばかりだから基本的にはOK。この場合の"基本的には"というのは、長州の気分次第で変わるという意味だ。

 新日本の維新軍時代の長州はマスコミとの協定で午後5時半から6時までの控室の出入りはOKにしていた。そうやってキッチリしていたから取材しやすかったが、全日本に上がってからは"基本的にはOK"という曖昧な形になってしまったので始末が悪い。普通に入っていける時もあれば、 「失礼しまーす!」「出てけ!」「失礼しました!」というパターンだってある。

 何が何でも試合前の長州を取材したい時には日本テレビの倉持アナウンサーに同行することが多かった。倉持アナはいつも放映前に事前取材をする。これは長州も拒否できない。その倉持アナと一緒に控室に入り、倉持アナの取材が終わったら、間髪入れずに自分の取材をするのだ。

 また、どうしても機嫌が悪くて受け付けてくれない時は、選手会長の永源さんに取材の趣旨を伝えると何とか取材できることが多かった。

 全日本初シリーズの85年1月に鹿児島で試合があった。大会翌日はオフということで、マスコミ各社はジャパン・プロの全日本初の巡業の写真を撮りたくて仕方がない。そこで全社が一致団結して永源さんに頼んで桜島をバックにした長州ジャパン軍の撮影に成功した。撮影後、私は長州に睨まれてしまった。 「お前さ、永源さんに頼んだろ。人が断れないのを知ってやっただろ」。

 だが、気難しい時代であってもリングを離れれば、長州は面白い人だった。その翌日、熊本県の芦北町からマサ齋藤が参戦するので私も同行。凄い田舎でホテルがなく、ジャパン・プロと同じ旅館に泊まったが、試合後にはマサさん帰国を祝う宴会に「チャンコを残したら取材拒否だぞ!」と誘ってくれた。また、ある時、事務所で雑談中のこと、 「ウチの本でマイ・グルメ固めというレスラー推薦のお店を紹介するコーナーがあるんですよ」 「ホント? じゃあ六本木の俺の知り合いがやってるカフェバーに行こう!」  その場から『トップサイダー』という店に連れて行ってもらったこともある。

 そうそう、当時、週刊ゴングで長州取材ナンバー1だったのが、のちに写真部長として活躍した岡本哲二さん。顔に似合わぬソフトな雰囲気と腰の低さで、気難しい選手をいつの間にか攻略して撮影してしまうという特技があった。
 この85年初シリーズの2月上旬には北海道巡業があり、記者が付かずに岡本さんだけが同行する期間があったが、あとで撮影したポジをチェックしていたら、何と吹雪いている道で長州以下のジャパン・プロ勢がニッコリとポーズを取って写真に収まっていたのだ。一体、岡本さんはどうやって吹雪の中で長州たちを連れ出し、おまけに笑顔の写真を撮ることができたのか???

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<第143回>長州らの移籍で週刊ゴング躍進!(08.1.30)

 1984年5月の創刊当初はUWF問題でつまずいてしまった週刊ゴングだったが、三沢タイガーの誕生、そして長州らのジャパン・プロレス移籍で一気に巻き返した。全日本にプラスしてジャパン・プロも担当するようになった私は忙しくなったものの、大いにやり甲斐を感じていた。

 前回、長州の単独インタビューに成功したことを書いたが、その前号の10月18日発売の第24号から10週にわたってジャパン・プロの大塚直樹社長の手記を連載した。ゴーストライターは私。その当時の週刊ゴングは木曜発売で、校了日は月曜日。火曜か水曜に恵比寿のジャパン・プロ事務所に出向いて大塚社長に話を聞き、それを文章にして木曜日にチェックしてもらい、金曜日に校了するというのが、その10週間の私のスケジュール。もちろん、その他に全日本の取材もあるわけだから、結構ハードな期間だった。

 ちょうど同じ時期、週刊プロレスでは佐山聡の手記を連載していたが、こちらのゴーストライターはターザン山本氏。私と山本氏は10月25日のUWF福島大会で一緒になり、翌26日の帰りにたまたま同じ電車に乗り合わせた。私はその日が締め切りだったので電車の中で大塚氏の手記を書いていると、山本氏も何か一生懸命に原稿を書いている。
「何を書いているんですか?」
「ン? 佐山の手記だよ。そっちは?」
「あっ、ボクは大塚さんの手記ですよ」
ということで大笑いになったことを思い出す。

 私が高校2年生の時に新日本プロレスのファンクラブを作って新日本の事務所に挨拶に行った時に応対してくれたのが、当時は営業部長の大塚氏だった。大塚氏の名前は大きかっただけに緊張したが、気さくに話をしてくれ、ポスターやパンフを頂いた。チケットを頼むことはあっても、大塚氏から「買ってくれ」と頼まれたことは一度もなく、私としては、凄くやりやすかった。そんな私が何年かして業界に入り、担当記者になったから、大塚氏も気が許せたのだろう。この手記では新日本との細かいやり取りなど、何でも話してくれた。

ちなみに手記のタイトル『心と心』はジャパン・プロの竹田勝司会長がつけてくれたものである。
「人間、契約書やお金では縛れませんからね。最終的には心と心ですよ」
 というのが竹田会長の命名理由だ。

 さて、ジャパン・プロ勢が85年1月の『激突!オールスター・ウォーズ』から全日本マットに参戦することが決定。いつも長州が表紙ではマンネリになるということで、ジャンボ鶴田か天龍源一郎がシリーズのポスターを持っている写真を撮影して「さあ、来い!長州」と謳って表紙を作ろうとしたが、何と全日本からはNOの返事。その理由は「ジャンボ、天龍を長州と同格に扱われたくない」とのことだった。

 ジャパン・プロ勢の殴り込みは歓迎しても、その裏には全日本の強烈なプライドがあったのだ。「そうか…これは85年になったら、取材に神経を使わなければいけないな」と私は緊張したものである。結局、12月6日発売の第31号の表紙は、ポスターを手にした長州になった。


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<第142回>長州の独占インタビューで社長賞(08.1.23)

1984年秋、日本マット界が揺れた。長州をリーダーとする維新軍のメンバーを始め、計13選手が新日本プロレスを離脱してジャパン・プロレス(新日本プロレス興行から社名変更)に移籍したのだ。ジャパン・プロレスは全日本プロレスと業務提携しており、85年からこのメンバーが全日本のリングに上がるのは明らかだった。当時、私は全日本プロレス担当記者。ジャパン・プロレスも私の担当になったのである。

 正直な話、ジャパン・プロレスは私にとって取材しやすい団体だった。全日本担当になって約半年経っていたが、全日本の選手より、高校生のファンクラブ時代から付き合いがあったジャパン(つまり新日本)の選手の方が、私にとっては近い存在だったのだ。社長の大塚直樹氏にしても、新日本時代は営業部長だったから、ファンクラブ時代にチケット購入でお世話になっている。大塚社長も、昔から知っている私が担当記者になったことを喜んでくれていたようだった。

 事実上、2団体の担当になったことで私は忙しくなった。全日本の取材がない日は恵比寿のジャパン・プロレス事務所に通うというのが生活パターン。  そんな中でターゲットはもちろん長州だ。当時、長州の取材嫌いは相変わらずだったが、団体を移籍したばかりとあって、協力的ではあった。だが、レスラーや事務員には優しくても、マスコミを見る目は「お前らは、俺の仲間じゃない」という冷たい光を放っていたのも確かだ。

 当時の舟木編集長(現・株式会社アッパー代表取締役社長)が私に命じたのは長州の単独インタビュー。10月19日にジャパン軍団の明治神宮参拝があり、この日をインタビュー決行日にした。

 参拝後、私は他のマスコミより一足早くタクシーで恵比寿の事務所へ。そして社長室に潜り込んだ。しばらくして他のマスコミが長州を追うように事務所に来た気配を感じた。長州はそれを振り切るように社長室に入ってきてドアをバタン! そこに私がいたようだからビックリしたようだった。
「何だ!?」
「いや、単独のインタビューをお願いしようと思って…」。
 それまで毎日のように事務所に出入りしていた甲斐があってか、長州は「まあ、いいか」と意外にもあっさりインタビューをOKしてくれた。

「俺自身はアントニオ猪木、藤波辰己との決着はすでについていると思っている」
「よくファンやマスコミは夢のカードって言うけど、これは俺たちが突破口を開いたんだよ」
「俺たちが上がっていって全日本がどう変わるか…そういう点じゃ、やり甲斐がある」
「プロレス界の流れは物凄く速い…今、日本マット界の頂点はアントニオ猪木と馬場さんで、この2人が若いレスラーの大きな壁になっていると言われてるよな。でも、俺たちはすでにそれを通り越していると思ってる」

 約1時間、長州は雄弁に語ってくれた。そしてその言葉は自信に溢れていた。
 この全日本離脱後、初めての正式なインタビューは週刊ゴング第25号の巻頭記事となり、私は社長賞をいただいた。

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<第141回>初めての取材拒否!(08.1.16)

 振り返れば、週刊ゴングは創刊当時、苦難続きだった。私が旧UWFから"捏造記者"のレッテルを貼られたのもそうだし、創刊2ヵ月後の1984年7月には初めての取材拒否も食らってしまった。

7月23&24日のUWF後楽園ホール2連戦『無限大記念日』で初代タイガーマスクこと佐山聡がザ・タイガーとして354日ぶりにリングに復帰した。23日は高田伸彦(現・田延彦)と組んで前田日明、藤原喜明とのタッグマッチ、24日はマッハ隼人とのシングルマッチだった。ここで問題発生。タイガーのマネージャーだったS氏が日本スポーツ出版社に「新間と仲がいい竹内宏介を辞めさせなければ、タイガーの試合は取材させない」と圧力をかけてきたのである。

本来、UWFは新間寿氏が佐山タイガーをエースに旗揚げしようとした団体だった。だが、直前で新間氏とS氏が揉めて、UWFは前田をエースとして発進。ところが新間氏とUWFフロント陣が揉め、結局は新間氏がプロレス界から身を引き、新間氏がいなくなったことでタイガーはUWFに上がることになった。

 このS氏の申し出を飲むわけにはいかない。かくしてUWFの取材はOKだが、ザ・タイガーの試合は取材拒否という不可解な事態に陥ったのである。

当然、ここで「はい、そうですか」と従うほど、我々はバカじゃない。当日、タイガーの試合の写真撮影と取材は2階のバルコニーから行なった。私もバルコニーに陣取っていたが、S氏が「ゴングの人間はいないか!?」と探しに来ていたのがおかしかった。

 さて、このタイガー復帰を掲載した週刊ゴング第13号の表紙にはバルコニーから撮影したザ・タイガーの写真はもちろんだが、それよりバーンと大きくなったのが三沢タイガーの写真。タイガー復帰の3日前に密かにメキシコから帰国した三沢光晴の写真だ。

 これは竹内さんの意地の反撃だった。7月31日に田園コロシアムでデビューする2代目タイガーマスクをスクープしたのである。

創刊時からUWF分裂騒動で週刊プロレスにリードされていた週刊ゴングは、この2代目タイガーマスクを売り物にして巻き返した。デビュー前に士道館での打撃特訓もスクープしたし、私も梶原一騎氏の事務所に出向いて士道館の添野館長にタイガーの可能性についてインタビューした。月刊ゴング用では明け方に神宮外苑前で馬場さん、川田との特訓を特写させてもらった。85年新年号(第34号)の表紙はタイガーと日高のりこの初詣ツーショットだった。あの時代、三沢タイガーマスクには随分、協力してもらった。今、改めて…みっちゃん、ありがとうね!

 さて、週刊ゴングとUWFの関係だが、決して良好とはいかなかったものの、ザ・タイガーの取材拒否もなし崩しとなり、通常の取材が可能に。佐山、前田、高田、藤原…みんな、個人的には快く取材を受けてくれていたことは記しておきたい。


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