<第140回>思い出の全日本砧道場(08.1.9)

 ゴングの週刊化によって1984年5月〜90年7月までの6年2ヵ月、全日本プロレス担当記者を務めたが、当時に思いを馳せると、パッと頭に浮かぶのは世田谷区砧の道場&合宿所だ。新宿から小田急線に乗って成城学園前で下車。そこからバスでNHK技研前で降りてトコトコと数分、住宅街の中を歩くと全日本の道場&合宿所があった。

 最初に行った時は正直ビックリした。外見は2階建ての普通の家。入っていくと、奥にプレハブの道場があるのだが、これが小さい。私は高校生の時から新日本の道場に出入りしていたから、リングだけでいっぱいいっぱいで、とても合同練習などできそうにない全日本の道場の粗末さにビックリしてしまったのだ。

 私が全日本担当記者になった当時、すでに越中、三沢はメキシコ修行に出発していて、道場に住んでいたのは寮長の冬木弘道、ターザン後藤、川田利明、練習生数人だけ。練習生の中には小川良成がいた。今でこそ試合巧者で知られる小川だが、当時はショルダー・スルーの受け身にヒーヒー言っていた時代だ。でも、その当時の練習生でデビューまで漕ぎ着けたのは小川だけ。行くたびに練習生のメンバーが代わっていて、その後に他団体でデビューした人もいる。

 第139回で書いたとおり、ターザン後藤は全日本で初めて親しくなった選手だし、川田も週刊化の5ヵ月前の1月26日〜30日のグアム合宿で仲良くなっていたから、道場に取材(遊び?)に行くのは楽しみでもあった。後年、親しくなる冬木さんは、当時は口下手でとっつきにくく、「この人は、俺のことが嫌いなのかな?」と思ったほどで、半年後の11月にメキシコ修行に出発した時には内心、ホッとしたものだ。

 道場での取材パターンは、午前中に出向いて練習を見学、その後に一緒にちゃんこを食べさせてもらって、あとはお喋り。今、思うと取材でも何でもないが、そういうことで選手とコミュニケーションが取れるようになるし、形式ばった取材ではないから、若い選手の本音が自然と聞ける。そうした何気ない会話は、のちに財産になる。たとえば、その選手がトップに行った時に、その根っこの部分がわかるからだ。

 その後、私が担当していた時代に合宿所に入ったのは高木功、ジョン・テンタ、菊地毅、北原辰己(現・光騎)、小橋健太(現・建太)、折原昌夫といった面々。

 菊地が「テンタスァーン、チャンコ、デキマーシタ!」とテンタを英語風発音の日本語で呼んでいたのには笑えたし、小ネタで「小橋の部屋はゴミだらけ」と書いて本人に猛烈に抗議されて「どうです、きれいでしょ!」と掃除した部屋を見せられたこともあった。そうそう、小橋は体を大きくするためにちゃんこの際、タレに生卵を入れたり、いろいろと工夫していた。とにかく生真面目な若者だった。菊地の部屋はモノトーンのローソファーなどが置いてあって、やたらとお洒落だったことを憶えている。

 私が道場に行き始めた頃の若手コーチは優しく厳しいハル薗田さん。薗田さんが亡くなってからは渕さんがコーチしていた。合宿所組以外で道場にいつもいたのはコーチ役の渕さん、三沢、冬木、川田。天龍同盟として正規軍と一線を画していた天龍さんは、みんながちゃんこを囲んでいる頃に合宿所を素通りして直接道場に入り、ひとりで黙々と練習、終わるとそのまま帰っていた。

 全日本の担当を辞めてしばらくして永源さんから「たまにはちゃんこでも食いに来いよ」と誘われて久しぶりに行った時のこと。見知らぬ若手がいた。浅子覚と井上雅央だ。この2人とも、のちに三沢たちが集う御徒町のスナックで親しくなるのだが、この時は私のことをまったく知らない。

 しばらくして、小川良成が笑いながら部屋に入ってきた。 「小佐野さん、時代は変わってますよ。あいつらに"誰が来てるんだ?"って聞いたら、小佐野さんのことを"永源さんのお知り合いの方のようです"だってさ(笑)」  

 道場には選手それぞれの若かりし時の夢と希望、汗、涙が染みついている。そしてそれを知っているのは、その時に取材した者だけ。砧は私の思い出であり、そこでの体験はかけがえのない財産である。

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<第139回>全日本で最初に仲良くなったのは…(07.12.26)

 1984年5月にゴングが週刊化されて、私は初代全日本プロレス担当記者になったが、それ以前の月刊誌時代には全日本の選手と接する機会は少なかった。当時は記者というより編集者としての比重が大きく、担当になるとしたら団体の担当ではなく執筆者の担当。私は櫻井康雄さん、菊池孝さん、門馬忠雄さん、山田隆さんなど、当時のプロレス・マスコミのトップの人たちを担当させてもらっていた。

 で、リング上の方だが、高校時代に新日本プロレスのファンクラブを主宰していたこともあって、新日本の選手には結構、顔が利いたが、全日本となるとサッパリ。当時は東京のビッグマッチぐらいしか会場に行かないから選手と仲良くなりようがなかったのだ。

 そんな中で最初に仲良くなった全日本の選手はターザン後藤。後藤は私より2歳下。ただし中学卒業後に大相撲の九重部屋に入門し、その後に80年4月に全日本に入門したので業界的には同期となる。

 もちろん仲良くなる前から存在は知っていた。今の髭面からは想像もつかない童顔で、マスコミの人たちに「お疲れさまでございます!」と元気に、そしてやたらと丁寧に挨拶する若手だった。

 そんな後藤と仲良くなったのは、ちょっとしたきっかけから。まだゴングが月刊誌時代の83年9月に品川プリンスホテルで日本テレビの特番『底抜け脱線ゲーム』の収録が行なわれ、ここに全日本プロレスも参加、当然、若手の後藤もメンバーとして名前を連ねていたのだ。

 私は芸能人目当てにカメラを持って取材に行ったのだが、休憩時間に後藤がおずおずと話しかけてきた。「あのお、すいませんけど、アイドル歌手の方と写真を撮ってもらえませんか?」。親しく話したことはないが、顔見知り。しかも歳が近いから頼みやすかったのかもしれない。

「えっ、誰がいいの?」と聞くと「いやあ、誰でもいいんで…」と後藤。  見回すと、松本伊代、石川秀美の姿が…。私は芸能マスコミでもないのに「秀美ちゃん、レスラーの人と1枚いいかな?」と慣れた感じで石川秀美に声をかけてパチリ。その写真をここで紹介できないのは残念だが、これをパネルにしてあげると、後藤は「東京で芸能人とも友達になりました」と母親に送ったというからカワイイ。

 しばらくして後藤が「これ、先日のお礼です」とウイスキーを持ってきてくれた。"鬼神"は実は礼儀正しい男なのだ。それは24年経った今でもまったく変わらない。


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<第138回>約束を守ってくれたJ鶴田(07.12.19)

 プロレス・マスコミにとってリング上の話題はもちろんだが、リング外の話題…特に人気レスラーの結婚というのは落とせないネタ。週刊誌の場合には発売までタイムラグがあるから出し抜こうという気持ちにならないが、新聞各紙にとっては、担当記者の面子がかかった重要なポイントのようだ。

 週刊ゴング創刊間もない84年6月28日、全日本のオフが長かったため、私はジャンボ鶴田の連れ出し取材をした。実はその時点で「近々、ジャンボが婚約を発表するらしい」という裏情報を掴んでいたからである。

「鶴田さん、近々、婚約発表するって話が入ってきているんですけど…」
喫茶店に入って単刀直入に切り出すと「えっ!? いやあ、確かにその通りなんだよ。でも、今は詳しいことは勘弁して。ボクとしては全マスコミに公平に発表したいし、相手もあることなんでね。ちゃんと小佐野クンの顔は立てるから…」と、ジャンボ。実はこの取材の4日前に正式に婚約していたのである。そして、取材から2週間弱の7月10日、東京・虎ノ門のホテル・オークラ『有明の間』で元スチュワーデスの荒牧保子さんとの婚約を正式発表した。婚約会見後、私の顔を認めたジャンボは「ちゃんと約束、守ったよね!」と一言。

 速報は新聞の仕事、こっちの仕事はその後の深い取材である。私はジャンボと保子さんがお付き合いをしていた当時にデートに付き合ったことがあるという日本テレビの倉持隆夫アナウンサーからアツアツの2人の写真を借り、さらに3日後の新宮市大会に出張に行った際に、試合後にホテルのジャンボの部屋を訪ねて馴れ初めを聞いた。

「もう発表したから、何でも話すよ!」とベッドに寝転がってすっかりリラックスしたジャンボは、6年前に女子大生だった保子さんに一目惚れしたこと、保子さんがジャンボとの結婚ではなく、幼い頃からの夢だったスチュワーデスになることを決意して一度は破局したこと。そして泣きながら保子さんの写真を燃やしたことなどなど…半分はおのろけだったが、午前3時ぐらいまでラブ・ストーリーを話してくれた。

 だが、このあとが大変! この記事の締め切りは翌日の午前中。つまり、出張から東京に戻る前に入稿しなければいけないのだ。今だったらメールできるし、ちょっと前でもFAXがあったから、どうってことないが…何しろ今から23年も前のこと。リングサイドの記者席に黒電話があったことを覚えているファンも多いと思うが、当時の新聞記者は原稿を書き終えると、本社で待機している人間に黒電話を使って原稿を読み上げていたのだ。

 この時の私がまさにそれ。ジャンボから話を聞いて原稿を書き終えたのが午前4時半過ぎ。そこから東京の週刊ゴング編集部に電話して読み上げ、それを書き取ってもらったのである。
「運命的な出会いをしたのは6年前テンテン(…のこと)昭和53年テン(、)神戸マル(。)」
 という具合に読み上げるから、やたらと時間がかかる。気付いたら午前8時になっていた。当時を思うと、写真も文章も一瞬で送れる今はいい時代になったものだ。

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<第137回>インドの狂虎シンをKOしたのは…(07.12.12)

 ハッスルで甦った男と言えば"狂虎"タイガー・ジェット・シン。6月に一緒にサムライTV『S−ARENA』に出演した時には約20年ぶりぐらいの再会だったにもかかわらず、若手記者時代と同じように襲われてしまった。本当に、この人にはヒドイ目に遭わされ続けている。

 でも、笑える話もあった。それは84年6月14日の出来事。この日の後楽園ホールのメインはでG馬場&J鶴田&天龍&Pトンガ(キング・ハク=ミング)とT・J・シン&上田&B・タイラー&鶴見のイリミネーション形式の8人タッグマッチ。

 当時は控室の出入りが自由だったから、試合前に例によって馬場さんとコミュニケーションを取らねばと思って近寄った途端、「バカヤロウ、どうしてくれるんや!」と、いきなり凄い剣幕。私は「?」だ。

「まったく…。食いなれないもん、食わすからシンが倒れて病院に行っちゃったじゃないか」。

 またまた私は「?」。よくよく聞いてみると、昼間にウォーリー山口さんがシンを連れ出してインド料理の店に連れて行ったところ、食後に気分が悪くなって、病院に運ばれてしまったとのこと。それを私に言われても困ってしまう…。

「馬場さん、食いなれないものって言ったって、インド人なんだからインド料理を食べても関係ないんじゃ…」と、思わず吹き出してしまった私。 「あのな、笑いごとじゃないだろ。高級なインド料理を食わせたのがマズイんや」と、怒っていたはずの馬場さんも思わずプッと吹き出した。

そうこうしているうちに廊下から「ハッタリハタマタ!」のシンの叫び声が。どうやら病院から後楽園ホールにやって来たらしい。そして何事もなかったようにイリミネーションマッチに出場して大暴れ。やっぱりシンはプロだ!

 ところでウォーリーさんがシンをインド料理の店に連れて行ったのには訳があった。当時の連載企画にレスラーがお気に入りのお店を紹介する『マイ・グルメ固め』というコーナーがあって、そのためにシンを連れて行ったのである。あとでシンの写真を見たら大笑い。真っ赤な顔をして、目も充血させて料理に食らいついているのだ。何でもシンは寝不足で体調が悪かったそうで、そこにもってきて激辛の料理を食べたから、一気に具合が悪くなってしまったそうだ。

 取材と関係ないが、NWA世界ヘビー級王者のケリー・フォン・エリックがゴング編集部に来た時に、トンカツを食べさせた時も馬場さんに「お前、世界王者にトンカツはないだろう。もっとマシなものを食べさせてやれ!」って言われたっけ…。


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<第136回>ハワイでロックの祖母を取材(07.12.5)

 1984年5月のハワイへの初海外出張(81年8月に3週間、アメリカを回ったが、アルバイト時代なので自費だった)は捏造記者の汚名を着せられる苦いものだったが、楽しい取材もあった。UWF関係の取材がすべて終わった翌日の84年5月26日にハワイにあったプロレス団体『ポリネシアン・チャンピオンシップ・レスリング』のオフィスを訪ねたのだ。

同団体の代表はリア・メイビア。往年の名レスラー、ピーター・メイビアの奥さんであり、今や本名のドゥエイン・ジョンソンとしてハリウッド・スターになったザ・ロックの祖母である。

 オフィスはカピオラニ・アベニューにあるビルの18階。ハワイ通(?)の今だったら、どうってことはないが、何しろ初めてのハワイでカラカウア・アベニューとクヒオ・アベニューをどうにか歩いているという状態だったから不安でたまらなかったが、とりあえずタクシーに乗って住所を告げてオフィスへ。迎えてくれたのはリア・メイビア代表とその片腕のラーズ・アンダーソンだった。

 ラーズ・アンダーソンと言えば、1960年秋の『第1回NWAタッグ・リーグ戦』(優勝はアントニオ猪木&星野勘太郎)にボブ・ループとのコンビで参加したレスラー。小学校3年生の時にテレビで見ていた外人レスラーが目の前にいるだけでも感激ものだ。

 私がここを訪ねたのは1ヵ月後の6月27日のNBC(ニール・ブレイズデル・センター)アリーナの同団体のビッグマッチに新日本の坂口と藤波の参戦が決定していたからで、その後、新日本の協力を得て発展、2年後の86年8月9日にはアロハ・スタジアムでスーパーショーを行なうまでになり、この大会には猪木、坂口、藤波、木村健吾、武藤敬司が参加している。

 さて取材だが、リア・メイビアさんの英語の発音がうまく聞き取れずに最後には筆談になったことを覚えている。メイビアさんが当時、興味を持っていたレスラーは若手の伸び盛りの高田伸彦(現・田延彦)だった。

 ザ・ロックは幼少期から高校(マッキンリー高校)の途中までハワイで過ごしていたが、この時はハワイにいたのだろうか? もしいたとしたら12歳になったばかり。小学生時代のロックに会っていて、写真でも撮っていたら"お宝"になっていたはず。残念!

 後日談としては、87年5月に大相撲の横綱からプロレスに転向した輪島大士の取材でハワイに行った時には『ハワイ・インターナショナル・プロモーション』なる新団体が出来ていた。取材に行ってみると、代表はロッキー・ジョンソン夫妻。つまりザ・ロックの両親であり、あのリア・メイビアさんの娘&義理の息子ということになる。何と親子でレスリング・ウォーをやっていたのだ。

今でこそファミリー仲良く暮らしているようだが、ロックは複雑なファミリー関係の中で育ったのだろうか。

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<第135回>捏造記者の汚名<PART2>(07.11.28)

木村、剛、浜田と新間親子のミーティングには私も同席していた。席上、新間寿氏は3選手に対して熱っぽく語った。 「前田はニューヨークのスケジュールがあって来ていないけど、田中先生(正吾=当時の前田の後見人)とは話をして了解を取っているから。今のUWFはこの4人が抜ければ崩壊する。4人でUWFを名乗って全日本に殴りこむんだ。馬場さんもOKだから、俺に任せておけば大丈夫!」。

 この新間案に即答でOKを出したのは浜田だけだった。浜田は新日本時代、新間氏のお陰でメキシコに行くことができた。新間氏に全幅の信頼を寄せていたのだ。だが木村と剛は渋い顔。新間氏の熱意と強引さに押し切られた形で「日本のゴタゴタを静観する意味で、一度すべてを白紙に戻すという意味でのフリーという形にしてもらえませんか。もちろん今後も木村さんをリーダーに4人で結束していきたいし、新間さんにも相談に乗っていただきたいので…」という"妥協案"を剛が切り出した。

 だが、どうあれフリー宣言はフリー宣言だ。新間氏はその場で東京スポーツの櫻井康雄氏に電話を入れて、4選手のフリー宣言を報告。さらにニューヨークの前田にも電話を入れ、「全員、話がまとまったから、よろしく!」と、詳しい事情を知らない前田の事後承諾を取りつけて、アッという間に"UWF4戦士がハワイでフリー宣言"という事実を作り上げてしまった。

 翌25日にはワイキキビーチでグラビア用に3選手のトレーニングを撮影。夕方になって私はひとりだけ剛に誘われた。
「小佐野クン、俺の部屋に来てビールでも飲まないか? 話をしようよ」。  そこで剛は本心を打ち明けてくれた。
「新間さんに従う形になってしまったけど、やっぱり日本に帰ってから浦田社長や他のUWFの人たちの話も聞いてみたい。だから"今の事態を静観する白紙の立場という意味でのフリー"というニュアンスで記事を書いてほしいんだよ」。

 同夜、私は週刊ゴング編集部に国際電話を入れた。当時はインターネットはおろか、ファックスもままならない時代。私が現地の様子を電話で報告し、それを記事にまとめてもらうという段取りになっていた。私は剛の言葉が引っかかっていたので"白紙という意味でのフリー"を強調したが、帰国後に刷り上った週刊ゴング第4号の表紙には『UWF選手、ハワイで衝撃のフリー宣言!』という大見出しが躍ってた。

 週刊誌はインパクトが大事なだけに仕方のないことだったが、私の懸念は的中した。6月1日、前田、木村、剛の3選手が東京・九段のホテル・グランドパレスで"UWF所属選手のフリー宣言に対する否定声明"を行なって「このUWFを存続させることが、俺たちの唯一の生きる道です!」 と声を揃えたのである。

席上、伊佐早敏男企画宣伝部長は「ハワイのフリー宣言は、新間さんサイドに立った悪意に満ちた捏造記事。フリー宣言の事実はありません!」と言い放ったではないか。これでは私は捏造記者ではないか。冗談ではない。ニュアンスの違いはあれ、フリー宣言は事実だった。見出しはともかく、記事の中では剛の気持ちをしっかりと伝えていた自負はあった。

 後日、剛から「小佐野クンの記事は間違っていなかった。ちゃんと俺の気持ちを汲んでいてくれていた。決して捏造じゃないよ」という電話をもらい、同年夏には木村から「これからもよろしくお願いします」と丁寧な暑中見舞いの葉書が届いた。それだけが救いだった。

 同年7月には新間氏に追従した浜田が全日本とメキシコUWAの業務提携によって全日本に登場。これはハワイの報道は捏造ではなかったことの証明だ。

 私に捏造記者のレッテルを貼った伊佐早氏とは山崎一夫が95年7月にUインターからフリーになった時に再会。当時、山崎のマネージャーだった伊佐早氏は他のマスコミ関係者をよく知らないこともあって、私を頼りにしてくれた。あの時、徹底的にやり合ったから、お互いに理解し合えたのだと解釈している。

 現在、上井オフィスの上井二三彦(文彦)氏もそう。上井氏は当時、旧UWFの営業部長で反・新間の急先鋒。ハワイの一件があった後は、エレベーターで私と乗り合わせても、ソッポを向いて口もきかなかった。今となっては「そんなこともありましたねえ」と笑い話だ。

真剣に向かい合えば、ぶつかりもするが、いずれ分かり合える時がくる。これが今の私の取材スタンスになっている。


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<第134回>捏造記者の汚名<PART1>(07.11.21)

 1984年春…週刊ゴングが週刊化された当時の最大の話題は旧UWF(ユニバーサル・レスリング・フェデレーション)の去就だった。

旧UWFは前年8月の新日本プロレス・クーデター事件から同団体を追われた新間寿氏がアントニオ猪木の受け皿として84年に突入すると同時に用意した団体。ところが密約があったはずの猪木は参加せず、前田日明、ラッシャー木村、剛竜馬、グラン浜田を主軸に発進を余儀なくされてしまった。猪木の不参加によって新間氏は新日本への吸収合併という形で事態収拾にかかったが、浦田社長を初めとするフロント陣は猛反発し、フロント陣はタイガーマスク(佐山聡)を引き入れての再出発を図り、新間氏排除路線へと向かっていった。

そんな中でフロント陣の某幹部が週刊プロレスに新日本と旧UWFの業務提携という名目の吸収合併の覚書のコピーを渡して、それが同誌の紙面を飾ったのである。対する週刊ゴングは新間氏寄りだったから、新間氏の言葉で反論を展開…両誌は真っ向から対立することになった。いきなり週刊誌戦争のスタートというわけだ。

 新間氏は5月21日にプロレス界からの引退を宣言。週刊ゴング第3号の表紙は、新間氏の顔のアップ写真に『UWF空中分解!だが新間寿死なず』の見出しが付いた。新間氏が大人しくプロレス界から身を退くわけがない。新間氏のウルトラCはハワイで前田、木村、剛、浜田の4人をフリー宣言させて、UWF軍団として全日本プロレスに挙げることだった。

 私は週刊ゴングの顧問になっていた竹内さんの密命を受けて2日後の5月23日、新間氏と息子の新間寿恒氏の親子より1日早くハワイに飛んだ。竹内さんが私を特派員に選んだのは、私がファンクラブをやっていた高校時代から新間氏に可愛がられていたからである。

 新間親子が宿泊するハイアット・リージェンシーにチェックインした私は、同日深夜にカナダ・カルガリーからハワイ入りしたラッシャー木村と剛竜馬をパシフィック・ビーチ・ホテルでキャッチ。私は彼らがすべてのシナリオを把握していると思っていたが、日本の状況を話すと、 「日本はそんな複雑な状況になっているの?俺たちは新間さんから"帰国前にハワイに寄ってくれ"って言われただけで、トレーニングになるからと思ってきたんだけど…。とにかく明日、新間さんと会って、じっくりと話を聞かないと、今はうかつなことは言えないから取材は勘弁してよ」  と、剛は驚いた様子。バッドニュース・アレンのラリアットで喉仏を潰されたという木村は腕組みをしてジッと黙っているのみだった。

"これはひょっとしたら新間さんの先走りなのではないか!?"――この時、私の心に不安がよぎったのも事実だ。

 翌24日、午前9時30分、ノースウェスト・エアラインで新間親子がハワイに到着。同日午後5時からハイアット・リージェンシーの新間氏の部屋でミーティングがスタートし、午後6時過ぎにはメキシコからハワイ入りしたグラン浜田もミーティングに合流した。(続く)

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<第133回>ジャイアント馬場を攻略せよ!(07.11.14)

 1984年春にゴングが週刊化されて全日本担当記者になった私にとって、最重要課題はジャイアント馬場にいかに存在を認識してもらい、食い込めるかということだった。

 ジャイアント馬場の世間一般のイメージは「いい人」。しかし取材する側から言わせると、アントニオ猪木の方が「いい人」だった。猪木さんはオープンな人だったから、誰が取材に来てもウエルカム。ニッコリ笑って「よろしく!」と握手の手を差し出してくれる人だ。まだゴングが月刊誌だった前年(83年)夏、土肥温泉での強化合宿の時、猪木さんはほとんど面識のない若造の私に、ホテルのロビーでアントン・ハイセルの必要性を1時間以上も熱っぽく語ってくれた。

 さて、ジャイアント馬場という人は、ハッキリ言って愛想が悪い。挨拶してもジロッと見るだけ。会話できるようになるまで、それなりの時間を要する。後年、馬場さんと親しく話せるようになってわかったことだが、新しい記者が来ると、必ず「あいつはどこの記者だ? 名前は何ていうんだ? プロレスを分かっているか? 信用できる人間か?」と、聞かれた。注意深く見ていて、信用できるとなったら、初めて自分のテリトリーに入れる。そして一度、テリトリーに入れた人間に対しては凄くフランクなのだ。

 私はゴングが週刊化される3ヵ月前の1月にグアム合宿で馬場さんの取材をしていた。グアムでキャンプを張っていたジャイアンツの王監督と馬場さんのツーショットをパセオ球場で撮影したのである。だが、当時の私はとても馬場さんと接する立場ではないから、話をしたこともない。事前に竹内さんが馬場さんと元子さんに話をしてくれていたので、実際は、私は取材交渉をする必要はなかったのだ。

 その後、タモン・サンズ・プラザで馬場夫妻と食事をしたが、緊張してなかなか話せなかったし、馬場さんは私のことをゴングの若いカメラマン程度にしか思っていなかった。当然、覚えられてはいなかった。

 そんな状況で、ゴングが週刊化されて初の全日本取材&初出張となった4月24日、大阪府立体育会館でいきなり試練は訪れた。東京スポーツの臨電を通して(当時は携帯電話などない)編集部から「今日の試合後、ホテルで馬場とドリーの乾杯の写真を撮るように」という連絡が入ったのである。

 この時、全日本はPWF認定世界タッグ王座決定リーグ戦の大詰めに入っていた。大阪大会終了時点で、馬場&ドリー組=6点、ハンセン&ブロディ組=5点で、翌25日の横浜大会で直接対決を残すのみ。編集部の判断は馬場&ドリーの優勝ということで、週刊誌としての特色を出すために、前日に馬場とドリーが前祝いをしていた写真をグラビアに載せたいというのだ。

 しかし、これは私にとってはプレッシャーの大きな注文。ほとんど初対面と変わらないのに、いきなり食事中に押しかけていって乾杯の写真を撮らせてくれなどと言うのはキツイ。 だが、命令とあっては仕方がない。試合後、宿泊先の大阪ロイヤルホテルに行き、馬場さんとドリーが食事をしているのを確認。レストランの人に元子さんを呼んでもらって、まずは元子さんにお願いしてみた。

「そうねえ、馬場さんが何て言うかしらね。あなたから直接、話してちょうだい」と元子さん。意を決して馬場さんに話すと「何だ、そりゃあ!?」。それでも拝み倒して何とかビールでの乾杯シーンを撮影させてもらった。

 これで一安心と思いきや、翌25日の横浜で馬場さんがハンセンとブロディの合体パイルドライバーでKOされてしまい、優勝はハンセン&ブロディに! こうなると、せっかく撮った写真が無駄になってしまう。考えた挙句、馬場さんがKOされたグラビアにこの余裕が命取り!?≠フ見出しをつけて、乾杯の写真を使用した。

「バカヤロウ、お前が無理矢理、乾杯させておいて"この余裕が命取り!?"はねぇだろう!?」と怒る馬場さん。でも、この一件で馬場さんは"ゴングの小佐野"を認識してくれた。

 だが、本当の意味で馬場さんを攻略するのはここからだった。5月18日から開幕した『グランド・チャンピオン・カーニバルU』では、とにかく会場に行くと真っ先に馬場さんに単独で話を聞きに行くことにした。当時は馬場さんに張り付く若い記者はいなかったから、これが接近する最短の方法である。

しかし馬場さんはなかなか、まともに相手にしてくれない。ある時には「お前、俺の取材がしたいの? だったら、モンテ・クリフト・ナンバー2という葉巻を持って来たら、受けてやるぞ!」と言われ、葉巻の知識がない私は元気よく「じゃあ、次に来る時に持ってきます!」。すると「アホやなあ、その葉巻は日本では売ってないんや。もし本当に持ってきたら、10万円で買ってやるよ」。

こんな状態が1シリーズも続いて落ち込んだりもしたが、竹内さんが、 「馬場さんが"タケちゃんのところの小佐野って若い奴は見どころがあるなあ"って言ってたよ」と言ってくれたのが救いになり、とにかく"馬場ストーカー"に徹した。

 馬場さんが私を懐に入れてくれたのは唐突だった。続く7月の『グランド・チャンピオン・カーニバルV』終了後、オフの取材の時に「おい、小佐野クン、ちょっと…」と、初めて名前で呼んでくれたのである。

「ちょっと寄っていくか?」と、キャピトル東急ホテルの『オリガミ』での食事にも誘ってもらえるようにもなった。確か、初めて『オリガミ』に行った時には、現在プロレスリング・ノアの営業部の三井政司氏と一緒で、2人で緊張しながら食事をしたのを憶えている。

 昨年11月30日にその歴史の幕を閉じた東京・永田町のキャピトル東急ホテルは、私にとって青春の場所≠セ。84年5月〜90年5月までの全日本を担当した6年間、何度通ったことか。

 このホテルは馬場さんの庭だった。G・BABAと刻印された専用のマッチがあったし、『オリガミ』は洋食レストランなのに、馬場さんが「天ぷら定食が食べたいなあ」と言うと、ちゃんと天ぷらが出てきた。『オリガミ』には馬場さん担当のウェイターさんがいて、「今日、馬場さんは来ていますか?」とよく電話したものだ。『オリガミ』の他にもお寿司屋さん、中華レストランにも連れて行ってもらった。そして、私は馬場さんからキャピトル東急ホテルでホテルでのマナーを教わったのである。

 馬場さんが海外から帰ってくると、ロビー・ラウンジで私、東京スポーツの川野辺修記者、デイリースポーツの宮本久夫記者、日刊スポーツの川副宏芳記者がお出迎えし、面白い話が聞けるまで粘った。一度、腰を落ち着けたら馬場さんが「帰る」と言うまで我々も帰れない。元子さんに向かって「かあちゃん、そろそろ帰るか!」と言ってくれると、いつもホッとしたものだ。

 それまで"猪木的世界"しか知らなかった私にとって、馬場さんがポツリポツリと話してくれることは新鮮だった。猪木さんは"夢の語り部"だが、馬場さんは等身大で現実的なことを話す。昔のことを聞いても、記憶力がいいので年月日まで出てくる。そして一番大きかったのは「プロレスとは…」ということを教わったことだ。

「プロレスにはスタイル云々は関係ない。スタイルが違っても、言葉が違っても、シューズとタイツさえあれば、世界のどこでもできるというのがプロレスという仕事なんや」 「プロレスというのはな、面白いものなんや。楽しいものなんや」 「誰がトップだというのは選手がアピールして決まるものじゃあない。決めるのはチケットを買って観に来てくれるお客さんなんだよ」 「別にウチをよく書いてくれとは言わん。ただし、レスラーのプライド、人間性を傷つける原稿は書いちゃいけないよ」

 そんな話を馬場さんはコーヒーを飲みながらしてくれたものだ。私のプロレス観は馬場さんによるところが大きい。これは今後も変わらないだろう。そして、これを継承し、書いていくことが私に課せられた役目のひとつだと思っている。


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<第132回>週刊プロレスに続いてゴングも週刊化<PART2>(07.11.7)

 83年夏に月刊誌から様変わりして創刊された週刊プロレスは着実に部数を伸ばした。そしてビッグ・レスラー、エキサイティング・プロレスという新興ライバル誌もある。当時の週刊ゴング3代目編集長の舟木さんが 「これで後発の2誌に遅れを取ったらゴングの存続が危うくなる。ウチも週刊化に踏み切るべきだ」と強硬に主張して、84年5月10日、週刊プロレスに遅れること10ヵ月、週刊ゴングが創刊された。

 ハッキリ言って、当時の私は週刊化に乗り気ではなかった。まず、準備期間があまりにも少なかったこと。我々、編集部員が週刊化の話を聞かされたのは3月末か、4月に入ったあたりだったと思う。会社は「週刊誌を創れ」と命令すれば済むが、実際に創る方にしたら堪らない。よく冗談で「俺たちは自動販売機じゃないよ」と言っていたものだ。

 戦略としては月刊ゴングと週刊ゴングの2本立て。ニュースを追うことよりも、プロレス本来の楽しさを伝えることをポリシーとしていた顧問の竹内さんと清水さんは月刊ゴング、週刊の方は舟木編集長をトップに新日本担当=小林和朋クン、全日本担当=私、UWF担当=田中幸彦クン、海外担当=ウォーリー山口雄介さんという布陣。この人員の振り分けは個人の希望に関係なく、会社の意向によって決められたものだった。

小林クンは私が高校時代に主宰していたファンクラブの編集長、週刊化と同時に入社した田中クンは、藤波辰己ファンクラブ『飛龍ドラゴン』にいた。2人の取材対象はアマチュア時代から顔見知りのレスラーがいる団体の担当になったから正直、羨ましかったものだ。

私は週刊化4ヵ月前の1月26日〜30日、全日本プロレスのグアム強化合宿に同行取材したので、ここに参加していたジャンボ鶴田、グレート小鹿、大熊元司、マイティ井上、百田義浩&光雄、渕正信、マジック・ドラゴン(ハル薗田)、越中詩郎、冬木弘道、ターザン後藤、三沢光晴、川田利明、レフェリーのジョー樋口さんと喋れるようにはなっていたが、昔から知っている新日本の選手たちと比べたら親密度が違う。いきなりの全日本担当は、かなりのプレッシャーだった。

それでも今になって振り返れば、ほとんど接点がなかった全日本の担当になれたことは私の財産。これを機に人脈が広がったからである。この年の9月、長州らが新日本を離脱して、ジャパン・プロレスとして全日本に上陸してきた時には、ジャパンの選手はみんな顔見知りだったし、すでに全日本にも馴染んでいたから、両サイドを縦横無尽に取材できた。

 この83年5月10日発売の創刊号で私は初めてトップ記事を書いた。馬場&猪木の引退説についての記事で、全日本担当になった私は馬場の引退説について書いたのである。大学生のアルバイトから入って4年…22歳でトップ記事を書けたのは光栄なことだった。

創刊号はわずか74ページという薄い本だったが、それでもよくあの短い準備期間、これだけの人間でやり遂げられたなあと思う。

当初は週刊化に乗り気ではなかった私だが、いざ仕事を始めてみると編集作業よりも取材&原稿書きの方が自分に向いているというのがわかって、忙しいながらも充実した日々がここから始まった。

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<第131回>週刊プロレスに続いてゴングも週刊化<PART1>(07.10.31)

プロレス専門誌ゴングが創刊されたのは1968年3月27日。69年11月には別冊ゴングも創刊され、以後、ゴングは月に本誌(ボクシング、のちにキックボクシングも含む)、別冊(プロレス専門)の2冊が発行されてきた。

プロレス・マスコミ業界はゴング、ベースボール・マガジン社のプロレス&ボクシング(のちに月刊プロレスとデラックス・プロレスの月2冊に)、新大阪新聞社の週刊ファイトの時代が長らく続いたが、81年にビッグ・レスラー(立風書房)、エキサイティング・プロレス(日本スポーツ企画出版社)が創刊され、プロレス専門誌は戦国時代に突入した。

また、81年の新日本と全日本による外国人選手引き抜き戦争、83年8月に起こったタイガーマスク(佐山聡)電撃引退事件、その直後の新日本内部のクーデター事件は、プロレス・マスコミの報道の在り方に大きな変化をもたらした。

古き良き時代、プロレス・マスコミの報道のメインは、次のシリーズに誰が来日するのか、そのシリーズの見所は何かというもの。さらに海外の情報が少なかったため、いかに海外の最新のニュースを伝えるか、海外の写真を入手するか、まだ見ぬ強豪を発掘するかが重要だった。

その他、技の分析であったり、歴史の検証であったりと、今の早いサイクルの流れを伝えることがメインになっている週刊誌よりも、より専門誌らしい企画が目白押しだったと思う。ちなみに月刊誌時代のゴングの3大エースはアントニオ猪木、ミル・マスカラス、テリー・ファンクの3人。何も話題がない時には、この3人のうちの誰かを表紙にすれば売れるという、本当にいい時代でもあった。

 だが、タイガー引退、新日本クーデターによってプロレス・マスコミは団体の内情に触れる記事を書かざるを得なくなったのだ。猪木社長、坂口副社長、新間専務が降格させられたクーデター事件にしても、表向きは新間氏がタイガー引退の責任を取って謹慎、猪木と坂口も「新間ひとりのせいにはできない」と役職を降りたということになっていたが、引退宣言していたタイガーが一般週刊誌に、
「新日本プロレスは自分のイベントにおける報酬を不明瞭に搾取し、それをアントニオ猪木が経営するアントン・ハイセルの資金に流用した。これは契約違反であり、契約解除の理由になる」  など、新日本内部の事情を告発したから、プロレス・マスコミも無視できなくなったのである。

 ゴングでも83年別冊10月号で、この問題に正面から取り組んだ。ここでは、それまで暗黙の了解として表に出ることがなかったタイガーのロスにおける極秘結婚式をキャンセルしたこと、猪木&坂口&新間が退陣を要求されたこと、アントン・ハイセルの問題について言及している。それは興味本位だけで、表面の部分しかわからない一般マスコミがスキャンダラスに扱ったのに対して、専門誌こそがそういった問題を掘り下げるのが義務だという考えからのものだった。

 この新日本クーデター事件を機に、プロレス・マスコミは団体の内情を報道するようになった。そうしたタイミングで83年夏、ゴングのライバル誌・月刊プロレスが週刊化に踏み切った。ファンの関心事がスキャンダラスな話題に移っている中での"月刊では遅すぎる、日刊では浅すぎる"という週刊プロレスのキャッチコピーは刺激的だったし、実際に時代にマッチしたものだった。


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