<第130回>竹内さん退社!私の運命が動き出した(07.10.24)

 仕事に慣れてきた80年の年末、日本スポーツ出版社は大激震に見舞われた。"ミスター・ゴング"こと竹内宏介編集長が編集長を降りるだけでなく、電撃退社したのだ。
12月のある日、山口雄介さん(以下、雄さん)と私は竹内さんに食事に誘われた。そこで竹内さんは「俺、年内で会社を辞めることにしたから」とサラリ。気力と体力の限界ということだった。

 その後、会社との何度かの話し合いの末、竹内さんは編集顧問という形で協力してくれることになったが、ゴングは新体制への移行を余儀なくされた。新編集長の舟木昭太郎さん(現・株式会社アッパー代表取締役社長)はボクシング&キックの専門、頼りになる先輩の宍倉清則さんはベースボール・マガジン社への移籍が決まっていて、プロレス部門は雄さんと編集の基本しかしらない私の2人が受け持たなければならなくなったのである。  雄さんと私が作らなければならないのは年明け15日発売の別冊2月号。まずは人員確保のために私のファンクラブ時代の仲間で、編集関係の専門学校に通っていた小林和朋クンをアルバイトに誘った。

私と小林クンは当時の別冊ゴングのウリでもあったピンクの付録ページを担当。これは締め切りが早いので、雄さんからドサッと渡されたアメリカの資料(当然、全編英語)をもとにAWA世界ヘビー級王座変遷史を徹夜して一晩で仕上げた。

私はこの他、宍倉さんが連載していた『マスコミとの遭遇』を引き継いで、ファンクラブ時代からお世話になっていたデイリースポーツの大加戸康一記者にインタビュー。

年が明けるや雄さん、私、小林クンの3人でほとんどのグラビアをレイアウト。専門学校に通っていた小林クンのデザイン・センスは素晴らしく、私はまったく太刀打ちできなかった。それは後に彼が独立して手掛けた団体パンフレット(新日本、リキプロ、BMLなど)に活きている。

そんなこんなで無事に別冊2月号が完成。ようやく本を作る喜び、自分の名前が出る喜びを実感できた。そして年明け1月には一般サラリーマンだった清水勉さん(現Gスピリッツ編集長)が入社して新たなゴングの体制が出来上がった。

その一方で、本格的に仕事をするようになった私は、多忙極める中で大学に行かなくなってしまった。一応、大学生というのが建前だったから、立場はアルバイトのまま。にもかかわらずボーナスも頂けるようになったし、海外への社員旅行にも連れて行ってもらえるようになったが「俺、このままでいたら、どうなっちゃうのかな」と不安を抱えての毎日。学校のシステムとしては4年生まで自動的に上がれるが、当然、単位を取っていなければ卒業はできない。大学3年終了時で、ちゃんと勉強しても卒業するのに4年かかることがわかった。

 大学の費用は親に出してもらっていたので心苦しく、いっそのこと退学してフリーになることも考えていた。というのも、その頃になると、ゴング編集部でのアルバイト料とは別に、バイトの時間は使わないというのを条件に原稿料をもらっていたし、80年夏にアメリカに行ったことでデイリースポーツから"まだ見ぬ強豪"を紹介する連載コラムの仕事も頂いていた。さらにプロレス出版ブームに乗って、無記名ながら子供向けのプロレス本の執筆の仕事も入ってくるようになっていたので、とりあえず生活していくには困らないだけの稼ぎはあった。もしかしたら24年前の時点で"フリーライター、小佐野景浩"が誕生していたかもしれないのだ。

 悩める私に声をかけてくれたのは船木編集長。
「そういえば小佐野クン、大学卒業はいつだっけ?」
「ええと…今度4年生になるんですけど、単位の問題があって卒業できるのは真面目に通っても4年後ということになりそうです」
「えっ!? だったら大学を辞めてウチの会社に正式に入っちゃうか!? 大卒の条件で入れてあげるから!」
 日本スポーツ出版社に大卒云々の入社規定があったのかどうかは知らないが、私は正式入社を決意した。そして中央大学多摩キャンパスに赴いて退学の手続きを取った。職員の方からは考え直した方がいいと言われたが、私は「自分の道は自分で決める。ありがとう、中央大学!」という熱血青春ドラマの主人公になった気分。手続きを終えて、キャンパスを振り返る自分に酔ったりして…。

83年3月、私は日本スポーツ出版社の正社員になった。

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<第129回>偉大なる人・竹内宏介(07.10.17)

 この業界に入って一番影響を受けたのは、やはり竹内宏介さんだ。私がゴング編集部に潜り込んだ時、竹内さんは33歳。月刊ゴング&別冊ゴングの編集長であり、日本テレビ『全日本プロレス中継』の解説者だった。その他、全日本プロレスのパンフレット製作とポスター・デザインも手掛けていた。

 当時の私にとって、竹内さんはオール・マイティに見えた。本作りの上では、まず発想と企画力。あの頃、一番きつかったのが編集会議だ。みんなの企画をジッと黙って聞いている竹内さん。行き詰まってくると「何だ…そんな企画しか出てこないのか」と、ボスの一声。そしてデスクの上に自らの企画書をパッと広げる。これで次の号の特集は一瞬にして決定してしまう。竹内さんの発想、企画力には誰も太刀打ちできない。

 竹内さんの頭の中には24時間、常にプロレスがあった。77年の第2次マスカラス・ブームでは、マスカラス親衛隊による騎馬での入場が話題になったが、それは『紅白歌合戦』の応援合戦を見ていてピンときて、仕掛けたものだそうだ。そんな話を聞いていて「この仕事は、どんな時でもプロレスを考えていて、結びつけることを心掛けていないといけないのか!」と気が引き締まる思いだった。

 仕事は…完璧主義者。一番に編集部に来て、最後まで編集部に残って黙々と編集作業をしていた。そして仕事が早い。ゴングがわずか5人で作られていることに驚いた私だったが、その昔は竹内さんひとりで作っていたのである。

 対外的なパイプの太さにも驚かされた。当時は新日本と全日本の興行戦争が熾烈な時期だったが、竹内さんは新日本では猪木の片腕で過激な仕掛け人≠ニ呼ばれた新間寿氏と親密な間柄だったし、全日本では馬場夫妻から全幅の信頼を寄せられていた。
「おお、小佐野か。頑張ってるか? 竹内の坊やはいる?」と、新間さんから電話がかかってくる。その横の電話が鳴って、急いで取ると「もしもし馬場ですけど。竹ちゃんはいるかしら?」と、元子さんからの電話だ。この人間関係は信じられないことだった。そして、この人間関係がゴングの大きな武器だった。

 81年、新日本と全日本の間に大物外国人引き抜き戦争が勃発して、新日本がアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜けば、全日本はタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを抜き返すという仁義なき戦いが繰り広げられたが、月刊誌にもかかわらず、ゴングはすべてをスクープできた。竹内さんが両サイドの動きをすべて把握していたからである。それでいて新間さん、馬場夫妻の両サイドともに人間関係が崩れなかったのだから凄いというしかない。

 団体、レスラーと信頼関係を築くというのはゴングの伝統になった。後にゴングが週刊化されて団体ごとに担当記者が付くシステムになったが、私は全日本、ジャパン・プロ、FMW、SWS、WARと担当した団体それぞれと太いパイプを築けたと自負している。

よくファンは"記者とレスラー、あるいは団体の癒着"を話題にする。担当した以上、"思い入れ"は生まれるが、"癒着"というものはない。癒着のイメージは「いつもウチの記事を書いてくれてありがとう」とレスラーや団体関係者が記者に金銭を渡したり、接待したりというものだろうが、そんなことはまず有り得ない。私個人について書けば、馬場さんにご馳走になったり、天龍さんによく飲みに連れて行ってもらったりしたが、私の中では仕事とは切り離したものだったし、それによって見返りを要求されたことは一度もなかった。中にはオイシイ思いをしている人もいるのかもしれないが、私の経験上から書かせてもらえば、癒着はプロレス・ファンの"幻想"に過ぎない。

話を竹内さんに戻そう。私生活の竹内さんも実に魅力的だった。18歳当時の私には、一般的な33歳のイメージはオジサンだったが、竹内さんは若々しかった。いい意味でミーハーだったから話をしていてもギャップを感じなかったし、ウォークマンやビデオデッキ、ビデオ・カメラ、CDプレーヤー…といった新しい電化製品が大好きな人だった。

「今度、これを買ったんだよ。これは前の製品と違って、こんな機能が付いていて…」と、ちょっと得意気に見せてくれる竹内さん。「ああ、ボクも竹内さんのように衝動買いできるような金持ちになりたいなあ」と思ったものだ。リッチマン…一言で竹内さんの印象を書けば、こうなる。電化製品を買うのもそう、大勢で食事に行けば、クレジットカードではなく現金でサッと支払い、移動手段はもっぱらタクシー。

「学歴は関係ない。自分に才能と力があれば、それだけで稼げるんだ。それも自分が好きなことを仕事にして」
そんな夢を竹内さんは見させてくれた。

 竹内さんは仕事を精力的にこなし、若者の感覚で遊び、お金も切れる。そして何事に対しても自信満々だった。
「もしかしたら竹内さんは、地球が自分を中心に回っていると思っているんじゃないか」と思ってしまうほど、竹内さんは輝いていた。

今、私の中に残っている竹内遺伝子は2つある。まず一つ目は、どんなにキャリアを積んでも勉強を忘れてはいけないということ。今の時代、どうしても日々のマット界の動きを追うことばかりに目がいってしまうが、プロレスは点ではなく線でつながっている。プロレスには歴史がある。その歴史を知ってこそ今がある。だから歴史は常に勉強しなければいけないし、調べものをする時は、自分でちゃんと調べるということだ。キャリアを積んだ今、私にオファーが来る仕事は過去の検証物が多いが、それをやることはひとつの義務だと思っている。

 もうひとつ…これが一番大きい。
「俺たちはレスラーじゃないから、試合をして声援を受けることはないよね。でも、ファンが望むことを仕掛けて、それが成功した時には業界が盛り上がるし、本だって売れる。その売れ行きこそが我々にとってレスラーが受ける声援と同じなんだよ」。

 何かを仕掛けるというのは、真の意味ではマスコミではないかもしれない。だが、プロレス界の場合はマスコミの仕掛けによって盛り上がってきたのも事実。私自身もこれまでのキャリアの中でわずかながら仕掛けをしてきた。それについては、いずれ書こう。

 今、竹内さんは病床に伏している。そして私が参加している『Gスピリッツ』の競合誌『Gリング』の最高顧問ということになっている。となると、表面的には竹内さんと私は対立しているということになってしまうのだ。でも、そんな小さなことはどうでもいい。なぜなら、声を大にして言うまでもなく、私には竹内イズムが根づいているからだ。それは『Gスピリッツ』で私が手掛けているページを見てもらえば明らかだと思う。私はそれだけでいい。それで十分なのだ。


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<第128回>プロレス村の掟?(07.10.10)

ゴングの人間としてプロレス会場に出入りするようになってしばらく経ったある日、竹内さんが「一度、馬場さんの奥さんにちゃんと挨拶しておかないとな」とポツリ。これにはビックリした。私は、ジャイアント馬場は独身だとばかり思っていたのだ。

 そして竹内さんに連れられて後楽園ホールのマスコミ受付へ。 「今度、ゴングに入りました小佐野と申します。よろしくお願いします」 「あらっ、随分とお若いのねえ」  それが私と馬場元子さんの最初の会話だった。馬場さんの奥さん=元子さんは、いつも会場入口で見かける女性だった。それまで元子さんは全日本プロレスの関係者だと思っていたから、これまたビックリである。そして、どのマスコミも元子さんに対して馬場さんの奥さんとして接している。こんなに大っぴらなのに世間では知られていないこともあるんだなあと感心したものだ。

馬場さんと元子さんが結婚を発表したのは、それから2年以上も経った82年7月のこと。よくプロレス業界を指して「本当の情報が公開されない独特の村社会」と言う人がいるが、馬場さんと元子さんの関係は、みんなで隠蔽したわけでもないし、誰かに口止めされたわけでもない。ごく自然に誰も口外しなかっただけのことである。

それこそ、どこかの新聞がスクープしようとすれば簡単なことだが、そんなことをする記者はいなかった。後に竹内さんに聞いたところによると『アサヒ芸能』が2人の後姿を出し抜いたことがあるというし、一般週刊誌も掴んできたが、それを業界の記者が潰していたという。また、菊地孝さんに言わせると「あの頃のプロレス記者は男と女のことを書く奴は記者じゃない!≠チて、芸能のことを毛嫌いしていたんだよな」とのこと。

そんな"プロレス村"が私は好きになった。そこには癒着や、なあなあな体質とは違う人間的な優しさ、思いやり、察するという心というものを感じた。そうした心が俗に言われる"プロレス界の暗黙のルール"だと私は解釈している。

そういえば、こんなこともあった。随分と後年の話になるが、東京・御徒町に全日本系のレスラーの溜り場になっていたスナックがあった。ここにはプロレス好きのタレントさんも常連として来ていて、よくダチョウ倶楽部もレスラーとワイワイやっていた。上島竜兵さんは、のちの奥さんの広川ひかるさんとよく来ていて、店の誰もが2人に夫婦として接していた。私も竜ちゃんとひかるちゃんは結婚しているものだと思っていた。ところが、ある時に某スポーツ新聞にダチョウの上島結婚!≠ニスクープ記事が載ったからビックリ!

「あれっ? 竜ちゃんとひかるちゃんの仲って秘密だったんですか? てっきり公になっていると思ってたのに…」 「そうなんだよ、朝から写真誌の車が家の前に張り付いているから困っちゃったよ」  と、竜ちゃん。その頃、タレント業を休んでいたひかるちゃんは、 「私なんか、元タレントって書かれたんだから。今でもタレントだっちゅーに!」  とプンプン。

 今はもうなくなってしまったこのスナックは、レスラーもタレントさんも、周囲に気を遣わずに飲める憩いの場だったのである。こういう感覚、こういう空間が好きな私は、他の人から見れば、プロレス村に染まった人間ということになるのだろうか?

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<第127回>編集者と取材記者の違い(07.10.3)

今のプロレス週刊誌のシステムでは、スタッフはすぐに現場に出される文字通りの取材記者。だが月刊誌時代には、基本的には取材記者ではなく、あくまでも本の編集者というのが基本だった。自分たちで取材をしたり、記事を書くことはあまりない。

一番大事なのは企画力と構成。その企画にふさわしいライターに原稿を発注→原稿の引き取り→原稿の整理&見出しやリード付け&レイアウト→校正というのが主な仕事だ。もちろんグラビアのレイアウトとキャプション(写真の説明文)書きもある。

下働きを始めて3ヵ月。1980年の夏頃には原稿取りも任されるようになった。今のようにメールやファックスがない時代だから、直接取りに伺うしかない。私は東スポの櫻井康雄さん、山田隆さん、フリーライターの菊池孝さんの担当だった。

テレビ朝日『ワールド・プロレスリング』の名解説者で猪木ファンだった私にとっては大きな存在だった櫻井さん、日本テレビ『全日本プロレス中継』の解説で名調子を聞かせてくれる山田さん、東京12チャンネル(現・テレビ東京)『国際プロレス中継』で細かいデータを織り交ぜた解説をしてくれる菊地さんとお会いできるというのは、かなりエキサイティングなことだった。私にとっては、テレビの中でしか知らなかったスターなのだ。

ミーハー的な気持ちだけでなく、これは貴重な体験だった。原稿を取りに行った際に大先輩の話を聞けるのである。櫻井さん、菊池さんは私が知らない力道山時代の話を聞かせてくれたし、山田さんはアメリカのいろいろな情報を面白おかしく聞かせてくれた。普段だと父親ほども年齢が離れている大先輩の方と話をする機会は少ないだけに、この経験は18歳の私には血となり肉になっていった。そして原稿整理をしていくうちに書き手の個性がわかるようになる。無記名でも誰の原稿だかわかるようになるのだ。

正直、締め切りを守ってくれない櫻井さんには泣かされた。原稿を取りに行くと「もうちょっとで終わるから、そこで待っててね!」と言われるのが常。その「もうちょっと」が原稿用紙20枚分ぐらいあるのだ。だが、驚かされたのが原稿を書くスピード。まさに書きなぐるという感じで、休まずに30分ぐらいで書き上げてしまう。猛スピードで書いているから、普通の人が見たらサッパリ読めないような悪筆だが、内容は完璧。櫻井さんならではの雑学を盛り込み、臨場感溢れる迫力のあるタッチには「これが櫻井康雄だ!」と、毎回唸らされた。

さらに山田さんの軽妙なタッチ、菊池さんのデータの織り交ぜ方、小さいネタでも大きくして引っ張る竹内さんの技法。いつかこうした要素をすべて取り入れた文章を書けるようになりたいと思っていた。

さて、当時の私の最大の難関はレイアウト。成績がよかった私だったが美術はいつも3か4。そっちのセンスがないのである。私は一大決心をして夜間のエディター・スクールに通うようになった。大学→ゴング→エディター・スクールという生活はさすがにハードだった。

今でも忘れられないのは19歳のクリスマス。ゴングでの仕事のノルマが消化しきれず、エディター・スクールに行ってから再び編集部に戻って仕事。結局、終電がなくなって、寝袋で寝る破目になってしまった。ああ、悲しき青春!

そうした苦い思い出はともかく、私が「プロレス記者」ではなく「プロレス編集記者」という言い方にこだわるのは(原稿の記名は通りがいいようにプロレス・ライター、あるいはフリーライターと称しているが、名刺には編集企画ライターと入れている)取材&原稿書きだけでなく、編集もできるという自負からである。

「取材、原稿書き、写真撮影、レイアウト…ひとりで何でもできるのが本当のプロレス編集記者だ」 「この仕事は最低限、紙と鉛筆と定規さえあればできる」  というのが、竹内さんの教えだった。


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<第126回>ゴング編集部のアルバイトの現実は…(07.9.26)

「好きなプロレスをリングサイドで毎日見て、それを仕事にできるなんて最高だなあ!」などという本当にイージーでミーハーな気持ちでゴングでのアルバイトを決めた私。そんな甘い夢は、いきなり木っ端微塵にされてしまった。とにかく編集スタッフ総勢5人という家内工業状態。しかも私の役目は引越し要員。最初の仕事はバラバラになった写真のポジやネガを整理することだった。

当時、私は小田急線沿線の鶴川に住んでいた。朝起きるとバスで鶴川駅に行き、そこから小田急線で新百合ヶ丘へ。ここで小田急多摩線に乗り換えて小田急多摩センターで下車して中大多摩キャンパスへ。授業が終わると多摩動物公園駅まで歩いて、そこから京王線で新宿に行き、ヨドバシカメラで写真ファイルを50冊ほど買い込んで総武線で水道橋、そこから地下鉄に乗り換えて春日で降りて編集部に行くという毎日。毎日、大量に買い込むのでヨドバシカメラのネガ・ファイルの在庫がなくなってしまうという状態だった。

私専用のデスクはないからダンボールを広げて、その上に座って写真の整理をする。まず団体ごとに分け、年度ごとに分け、シリーズごとに分け、日にちごとに分け…そうやって黙々とファイルを作っていく。ハッキリ言って私はプロレスの知識には自信があったから、この仕事は苦痛ではなかった。そして整理しながら「おおっ、こんなショットがあるんだ!」ということも頭にインプットしていった。

後の資料倉庫の初期の12年間ぐらいのファイルは、ほとんど私が作ったもの。そしてこの地味な仕事は後に大いに役立った。いろいろな写真がどこにあるか分かるから、編集企画室長になって増刊号を手掛けることになった時には、どこにどんな写真があるか把握しているからスピーディーに写真を探せたし、フリーとして週刊ゴングの仕事をするようになった時も、昔の写真を使った企画物を作る際には、必ず私にオファーがきていた。

この写真整理と並行して大事な仕事だったのが、読者のコーナーの『レター交換室』。"おゆずりします""おゆずりください""文通しましょう"の読者のハガキを吟味して原稿にするのだ。金品のやりとりのコーナーだけに詐欺事件が起こってはいけないし、文通については単なる男女交際目的なのかどうかまで考える。中には「○月○日の後楽園ホール大会で×列△番に座っていた女性の方、文通しましょう」などというのもあって笑えた。

編集部では写真整理だけで精一杯だったから、読者のハガキは自宅に持ち帰って大学の授業の間の休み時間にやっていた。そう、私には楽しいキャンパス・ライフ≠ヘ無縁だったのである。

写真整理、読者のハガキから始まって、次に任されたのが試合の記録…熱戦譜を原稿にすることだった。これは根気がいる作業だし、表記の仕方にもゴング流の細かいルールがある。指導してくれたのは宍倉さんだった。宍倉さんは生真面目で実直、几帳面な人だから、本当に丁寧に教えてくれた。熱戦譜を書く時は、いつも宍倉さんの家に泊まらせてもらって、指導を受けながら徹夜で書いたものだ。

私の先生は、この宍倉さんと雄さん。宍倉さんが何でもキッチリしていなければ駄目な人なら、雄さんはかなりアバウトで、本当に対照的な2人だった。宍倉さんが仕事のベースをキッチリ教えてくれた人だとしたら、雄さんはプロレス業界の雰囲気と楽しさを教えてくれた人。地味な毎日の中、私が高校時代に写真部にいたことを知っていた雄さんは、自分の連載の『ピラニア・インタビュー』の取材の時には社のカメラマンではなく、私を連れ出してくれた。ファンクラブ時代と打って変わって、内勤の仕事で外に出られない私のガス抜き≠してくれていたのだと思う。

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<第125回>引越し要員としてゴング編集部へ(07.9.19)

私が日本スポーツ出版社のゴング編集部に潜入したのは今から27年も前の1980年春のことだった。

それまで私が通っていたのは中央大学附属高校だったので、よっぽど成績が悪くない限り無試験でエスカレーター式に大学に入ることができる。ファンクラブ活動で青春を謳歌しながらも「成績は絶対に下げない」と勉強はしっかりやっていた。お陰で希望学部を自由に選べるだけの成績は残していた。

「小佐野、お前の希望はどこだ?」という担任の先生の問いに「では法学部法律家ということで…」と、私。特に法律に興味があったわけでもないが、中央大学といえば法科。元々、文科系だったから、漠然と将来は弁護士にでもなれるかなという軽い気持ちだった。

この時点でプロレス・マスコミという進路は私の頭の中にはなかった。まるっきり現実味がなかったからだ。ファンクラブを継続しつつ、キャンパス・ライフを楽しみ、卒業後は普通に就職、運がよければ弁護士…などという安易な将来を考えていた。こうして書いてみると…なんて夢も野望もないつまらない若者だったのだろうと苦笑せざるを得なくなってくる。ああ、情けない!

だが、そんな人生プランを一変させたのがウォーリー山口雄介さん(以後は雄さんと表記)からの電話だった。
「小佐野クン、大学生になるんだよねえ。だったら暇な時間も出来るだろうから、ゴングでアルバイトしてみない?」という、プロレス・ファンにとっては甘くて魅力的な囁きに、私は後先考えずに「ぜひ、やらせてください!」と即答していた。のちに聞いたところによると、ファンクラブの先輩格にあたり、現在は『月刊Gスピリッツ』の編集長として活躍している清水勉さんが私を編集長の竹内宏介さんに推薦してくれたのだという。

ただ、その時点で4月5日にファンクラブとして『山本小鉄を囲む会』を開催することが決定していたので、バイトを始めるのはそれ以降…大学に入学してからにしてもらった。

ちなみに私が初めて訪ねたのは高校生のファンクラブ時代だった。バックナンバーを買いに行ったのだ。よく、当時のゴングには「本誌の資料室に眠っていた貴重な1枚が…」というようなフレーズが使われていただけに、どんな立派な会社かと期待に胸を膨らませて到着して見ると、それはどう見ても木造2階建ての普通の家。

「ええっ!? こんなところにマスカラスが来たの?」と愕然としたことを憶えている。元々は料亭だった建物を買い取ったのだそうだ。

1980年4月某日、アルバイトとして日本スポーツ出版社へ。もう普通の家のような本社を見ても驚かなかったが、会社の規模の小ささにはまたまた驚かされた。ゴング編集部は2階の上の屋根裏部屋のようなところにあり、しかもプロレス担当は編集長の竹内さん、嘱託の雄さん、アルバイトの宍倉清則さん(現・週刊プロレス顧問)の3人、ボクシング&キック担当は舟木昭太郎さん(現・株式会社アッパー代表取締役社長)とアルバイトの原功さん(後にベースボール・マガジン社ボクシング・マガジンの編集長を11年間務め、現在はフリーのボクシング・ライター)の2人だけ。天下のゴングは5人だけで作られていたという衝撃の事実! しかも正社員は竹内さんと舟木さんの2人だけだったのである。  

そして新たに加わった私の仕事は…この普通の家みたいな本社を建て直すことになり、ゴング編集部を別のビルの一室に移すにあたっての資料整理。つまりは単なる引越し要員だった――。


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<第124回>嗚呼、青春…ファンクラブ時代の思い出(07.9.12)

 今思うと、ファンクラブをやっていた高校2年から卒業までの2年間が人生の中で一番好き勝手に生きていた。プロレスは趣味であって仕事ではない。だから売り上げとかを考えずに好きなように会報作りができる。高校は男子校だったが、ファンクラブには女の子の会員もいたし、他のファンクラブとも交流があったから友達が増える。当然、好きなコもできちゃったりする。高校の文化祭にファンクラブ関係の女の子を連れて行くと、
「おおっ、小佐野が女を連れて来た。女と喋ってるぞ!」
と、英雄になっちゃうのだ。何しろ男子校だから、女性といえば、学食のおばちゃんぐらい。みんな女性と喋ることを忘れてしまっている。同年代の女の子(つまり女子高生)とフツーに喋っているだけでも「凄い!」ということになるのだ。

この時代、楽しかったけれど、金欠病だった。試合を観るチケット代、開場まで行く交通費、会報を作るためのコピー代や郵送費、ゴング、プロレス、週刊ファイト、東スポを買うお金…いつもピーピーだ。昼食代はほとんどこうしたことに消えたから、基本的に食事は朝と夜の2食。食べるにしても学食には背を向けて、購買部でパンと牛乳で済ませるという日々だった。

チケットは当然、立ち見。それも一番安い小中学生のチケットを買う。会員の中に中学生の奴がいたから、そいつに買いに行かせる。国際プロレスの後楽園大会は小中学生無料だったので、中学生だと言い張って(別に生徒手帳を見せる必要はなかった)タダで観に行っていたものだ。

我々、貧乏学生にとって鬼門だったのは新日本で遠藤幸吉氏が手掛ける興行。いつも小中学生料金には売り切れの線が引っ張られていて、仕方なく大人料金で入る。でも、会場に入ると、どう見ても小中学生売り切れのわけがない入りだった。

航空運賃が半額になるスカイメイトで79年5月10日、福岡スポーツセンターにおける猪木VSジャック・ブリスコを観に行ったし、同年11月1日の札幌中島スポーツセンターにおける猪木VSダスティ・ローデスを観に行った。新幹線ではなく鈍行を乗り継いで大阪や名古屋に行ったこともある。

79年7月24日〜27日はファンクラブ有志12人で大島観戦ツアーをやったのも忘れられない思い出。新日本でもツアーの募集をやっていて会費は32000円! そんな大金を我々が持っているはずもなく、正規ツアーと同じ日程でオリジナルの格安ツアーを敢行することになったのだ。竹芝桟橋からフェリーで大島へ。フェリー内で1泊して大島に到着、その日の夜にプロレス観戦。翌日は海水浴にサイクリング、夜はキャンドル・ファイヤー、花火大会に肝試し…まさに青春だ!

お酒を覚えたのもファンクラブ時代で、ミーティングと称して新宿の焼き鳥屋さんで飲んだっけ。

純粋な(?)ファンクラブ活動ではゴング主催の『第4回ファンクラブ会報コンテスト』で第2位を頂いたり、79年4月5日に東京体育館で凱旋帰国したグラン浜田の応援隊を結成して入場の際に騎馬隊を作って盛り上げた。

80年4月5日には東京・水道橋のアイウエオ会館で前日に引退試合を行なった山本小鉄さんの集いを主催。この時にはゲストとして出席してくれた古舘伊知郎アナウンサーが引退試合の8ミリフィルム上映の際には「僕に喋らせて下さい!」と席から立ち上がってノーギャラにもかかわらず即興で熱い実況をしてくれたのには感激だった。

この頃、私は大学に進学したばかり。この直後に私の人生に大きな転機が訪れた。

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<第123回>ファンクラブ時代に知り合った関係者(07.9.5)

どうにかこうにか会報第1号を作った私は、のちに週刊ゴングの副編集長、その後には有限会社バーニング・スタッフを設立して新日本プロレスのパンフレットなどを手掛けた小林和朋君と『ザ・マニアックス』の8ミリ大会で知り合ってスカウト。彼は写真を撮るのが上手だし、字も上手。おまけにレイアウト・センスもあったので、すぐに編集長になってもらった。彼が手掛けた第2号は78年別冊ゴング11月号の『ファンクラブ・コーナー』で紹介されて、会員もドッと増えた。

その紹介記事を見て、私の自宅に電話をかけてきてくれたのが、今はUWAI STATIONを主宰している上井文彦氏だった。上井さんは当時、新日本の若手営業部員。「ゴングの『ファンクラブ・コーナー』を読みました。よろしかったら、そちらの会員さんでチケットを購入してもらえませんか?」 と、高校生の私に電話してきてくれたのである。今も昔も上井さんは行動派なのだ。

 当時の私としては、新日本の営業の人がわざわざ電話をくれたのは嬉しかったが、あくまでも私設ファンクラブであり、「団体に利用されたくない」という青臭い考えを持っていたから丁重にお断りしたが、当時の新日本の人たちは本当にファンに優しかった。それは、いきなり藤波さんにインタビューさせてくれた新間さんの「自分たちがファンだったら、会社に何を望むか考えろ」という教育が徹底されていたからだと思う。

「よく言っていたのは、しょっちゅう来るファンを先に入れてやって、開場を待つ観客の前で声をかけてやれ。誰も入れない控室に一緒に連れて行って写真を撮り、サインを貰って帰してやれ。自分たちがファン時代にやりたかったことを、そのファンにさせてあげろと。そうしたらファンの人たちが新日本に一体感を感じてくれて、いずれは切符につながるだろうと。そうやってプロレスに夢を持った小佐野みたいな少年が年月を経て、このプロレス界で活躍しているのは嬉しいことだよ」
 と、後年になって新間さんは言っていた。

 初めて東京・青山の新日本プロレス事務所にファンクラブ設立の挨拶に行った時には時の営業部長の大塚直樹氏が応対してくれたし、その後は営業次長の加藤一良氏(現・全日本プロレス営業顧問)、のちに旧UWFの中心人物になる伊佐早敏男氏(故人)が新日本とファンクラブのパイプ役になってくれた。

 もちろんレスラーとも顔見知りになる。ヒロ斎藤は藤波さんの付人、しかも同じ年だったので喋りやすかったし、"イス大王"栗栖正信は親しみやすいオジサンだった。木村健吾(現・健悟)、小林邦昭らとも喋るようになったが、小林さんの第一印象は最悪。例の藤波さんにインタビューした日本武道館でいろいろな選手にサインを貰ったが、ただひとりサインしてくれなかったのが小林さんだったのだ。のちにヒロ斎藤と親しくなって、この話をしたら、ヒロちゃんいわく、
「俺もね、レスラーになる前のファン時代にひとりだけサインしてくれなかった人がいたの。それは小林さん!(笑)」

 その他、会報用にインタビューしたのは剛竜馬、上田馬之助、グラン浜田、長州力。剛さんには今でもファンクラブ時代のことを言われるし、上田さんはサインを頼むと、わざわざホテルの部屋に戻って筆を持ってきてサインしてくれる優しい人だった。浜田さんとは新日本の事務所があった井植ビル1Fの喫茶店『MIO』で当時流行っていたインベーダー・ゲームをやったのが思い出だ。

長州さんは革命戦士になる以前の七三分け時代から愛想が悪かった。インタビューしたのは79年6月29日、『サマー・ファイト・シリーズ』開幕戦の大宮スケートセンター。前もって加藤営業次長にお願いしてあったが、「ファンクラブの者ですが…」と話しかけると、あっちに行けとばかりに手でシッシ。「加藤さんに話しておいたのですが…」と言うと「ああ、だったら10分だけな」。そして、とにかくぶっきら棒。それでも持ち前の知識を駆使してマニアックな質問をぶつけてみた。
「長州さんは確か海外修行時代にカナダのノバスコシア地区でベルトを獲っていますよね? 誰から獲ったんですか?」  すると、ちょっと表情が変わって、 「デュプレ…エミール・デュプレっていうんだけど、あんまり知らないでしょう?」
 と、インタビューにちょっと乗り気な様子になり、その後はジョージアでハーリー・レイスと戦ったこと、ディック・スレーターやボブ・ループとよく戦っていたことなど、専門誌では喋っていないことをポツポツと話してくれた。

自然と多くのレスラーと顔見知りになったが、唯一喋れなかったのがアントニオ猪木。やはり猪木さんは私の中で特別な存在で「サインをください」とも「写真をお願いします」とも言えない。猪木さんと会話をしたのはゴングで仕事をするようになってからだ。


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<第122回>新日本プロレス・ファンクラブ結成(07.8.29)

 よくネットの書き込みで「しょせん、今のプロレス・マスコミはファンクラブ上がりの…」というのを見つける。ファンクラブ上がりじゃ悪いかい!? ファンクラブ上がりはバカとでも言うのかい!? ハッキリ言って、この仕事は見ている年数がモノを言う。私が実際に仕事を始めたのは1980年からだが、それより10年も前からのファン歴は大きい。どんな知識も実際の記憶には勝てないからだ。つまり、私にしたって竹内宏介さん、菊池孝さん、門馬忠雄さんといった大先輩には、どう逆立ちしたって太刀打ちできないのである。

 それに、この仕事は本当に好きじゃないと体も心ももたない。そしてファンの感覚を持っていないと駄目だと思う。ファンの側の心を忘れないで、その上でビジネスとしての感覚も身に付けることが重要なのだ。だから私は「ファンクラブ上がり、大いに結構!」と言いたい。

 さて、ファンクラブの基本は会員に配布する会報作り。しょせんは素人のお遊びでも、知恵を絞って企画を捻り出し、1冊の本を作るのは決して無駄ではなかったと思う。少なくともそれによって本作りの感覚は掴んだと思っている。

 私が新日本プロレス・ファンクラブ『炎のファイター』を結成したのは、78年5月。高校2年生になったばかりの頃だ。当時、ゴング誌上ではファンクラブが盛り上がっていた。会報を紹介するコーナーもあったし、マスカラス・ファンクラブ『エル・アミーゴ』(会長・清水勉=のちの週刊ゴング編集長で現・月刊Gスピリッツ編集長)と総合ファンクラブ『JWC』(会長・鈴木清隆=現在、アメリカ在住のジミー鈴木氏)が田園コロシアムでマスカラスとジャンボ鶴田の応援合戦をやったりしていた。また、当時は大学生だったウォーリー山口雄介さん、宍倉清則さん(現・週刊プロレス顧問)がゴングで連載記事を持ったり、『ザ・マニアックス』という名前でプロレス8ミリ大会を開催するなど、ファンがプロレス・マスコミに参加できるムードがあったのである。

 これは今にして思えば、編集長だった竹内さんの仕掛け。本と読者の距離を縮めるという意図もあっただろうし、そうしたファンの中から後進を発掘・育成しようという狙いもあったのだろう。そんなムードに私はまんまと乗せられてしまったのだ。

 ファンクラブ結成といっても、何も難しいことはない。手続きも何もないし、「俺は今日、ファンクラブを作ったぞ!」と思えば、それでOK。だから我が『炎のファイター』は結成時点で会長の私ひとり。とりあえず会報の第1号を作って、それをゴングに送って会員募集すればいいやという感じだった。

 私は大胆行動に出た。会報第1号にはどうしても選手のインタビューを載せたい。6月1日、日本武道館の試合に早めに行き、いきなり過激な仕掛け人$V間寿に声をかけたのである。
「あの〜、ファンクラブの者なんですけど、藤波選手にインタビューさせてもらえませんか?」
 ファンクラブといったって名刺もなければ何もない。今、思えば失礼な話だ。ところが新間さんは私を無視するどころか、
「えっ、ファンクラブの方なの? 藤波なら、さっきここにいたのに。練習していると思うから、見て来たら?」
 開場前にもかかわらず、私のチケットも確認しないで中に入れてくれて、さらに勝手にアリーナに探しに行けと言うではないか。このVIP待遇(?)には図々しい私もさすがに戸惑ってしまった。結局、新間さんは「一緒に探してあげよう」と控室まで連れて行ってくれ、 「カンペオン(藤波のこと)、ファンクラブの坊やがインタビューしたいって言ってるから、10分間だけ受けてあげてよ!」
 と言ってくれて、本当にインタビューが実現してしまったのである。当時、私は16歳、藤波は24歳。この時のことがあるから、40代半ばになった今でも藤波さんには「少年探偵団!」と呼ばれてしまう。

 この時、ある一言で藤波をムッとさせてしまった。チャボ・ゲレロについて「彼はベビーフェイスですよね?」と聞いたら、明らかに不機嫌な顔になって「どういうレスラーがベビーフェイスで、どういうレスラーがヒールというんだい? 僕にはそんな区別はわからない。そういう質問には答えられないよ!」 とキツイ口調に変わったのである。

 その時は、なぜ不機嫌になったかわからなかったが、当時の藤波は3月に2年9ヵ月の海外武者修行を終えて帰国したばかり。善玉=ベビーフェイス、悪玉=ヒールという言葉は日本では当たり前でもアメリカでは隠語だった。アメリカでは善玉=グッドガイ、悪玉=バッドガイと呼んでいたのである。いきなり高校生のファンがインタビューに来て、しかも隠語を使ったのだから、ムッとしても当然の話だ。

 それはともかく、この藤波インタビューを目玉に会報第1号は完成した。表紙を含めて全42ページ。高校に入学してから写真部に入っていたので、自慢の腕(?)で撮影した猪木VSバックランドのグラビア、藤波インタビュー、6・1日本武道館観戦記、私のお宝のひとつだったアメリカ誌『オフィシャル・レスリング・アニュアル』1973年7月号の猪木を紹介した"日本のヤング・ライオン"という記事を訳した"猪木は米国でどう評価されているのか?"という読物、さらに"関係者はどう評価する?"と題した『MSGシリーズ』に関して竹内さん、山口さん、宍倉さんにアンケートに答えてもらった。素人が初めて作った物にしたら、まあまあの出来だろう。

 ちなみにファンクラブ発足にあたっての挨拶には「日本プロレス界のリーダー的存在である新日本プロレスを客観的にみつめ、ファンの声を伝えることが、日本プロレス界の発展につながると思います」と生意気なことが書いてある。でも「客観的にみつめ、ファンの声を伝える」というのはゴング時代の私の基本的精神だった。

 ウーン…「三つ子の魂百まで」「雀百まで踊りを忘れず」とは、こういうことをいうのだろう。

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<第121回>プロレス初観戦(07.8.22)

 小学校1年〜4年の2学期まで、私は神奈川県鶴見区に住んでいて、アントニオ猪木と同じ東台小学校に通っていた。当時、仲がよかったのが駄菓子屋の稲垣クンだ。 彼もプロレス好きで、私に右に倣えでゴングの愛読者になった。その稲垣クンにある日、「ボク、今度、横浜文化体育館にプロレスを観に行くんだ!」と言われた時、羨ましくてしょうがなかった。稲垣クンが観に行ったのは70年7月28日、日本プロレス『NWAワールド・チャンピオン・シリーズ』第2戦。NWA世界ヘビー級チャンピオン、ドリー・ファンク・ジュニアの2度目の来日、弟テリー・ファンクが初来日した時である。しかもセミファイナルには大好きな猪木とテリーの一騎打ちが組まれていた。

 稲垣クンはお土産にパンフレットを買ってきてくれた。パンフレットは会場に行かなければ買えない。初めて手にしたパンフレットはゴングと同様に私の宝物になった。表紙はNWA世界ベルトを手にしたドリーとテリー。めくるとNWA会長サム・マソニックの挨拶文があって、その次にはファンク一家の読物がある。後ろの方のページには若手精鋭陣の紹介があって、ここで初めて長澤秀幸というレスラーを知った。生年月日を見ると大正13年1月2日。「ええっ? こんな年寄りの若手レスラーがいるの!?」と、子供としては衝撃的な発見だった。それはともかく、このパンフは37年経った今も大切に保存してある。

 さて、私のプロレス初観戦だが、1回目のチャンスはすぐにやってきた。 「稲垣クンも観に行ったんだから、ボクも連れて行ってよ!」と父親に猛アピールし、稲垣クンから遅れること1ヵ月、9月25日の後楽園ホールにおける『第1回NWAタッグ・リーグ戦』開幕戦が私の"初体験"になる…はずだった。"はずだった"というのは、結局、行けなかったから。その前日、帰宅した父親が「ゴメン、前売り券が売り切れだってさ。代わりにサーカスに行こう」とポツリ。プロレス初体験はサーカスに代わってしまったのだ。

 結局、私のプロレス初観戦が実現したのは、それから約3年半後。もう私は小学校5年生になっていた。忘れもしない73年1月26日。国際プロレス『新春パイオニア・シリーズ』最終戦の横浜文化体育会館だった。メインはストロング小林とラリー・ヘニングの金網デスマッチ。うう…渋すぎる! ちなみに第1試合は栄勇(故スネーク奄美)VS八木宏(剛竜馬)。初来日のケン・パテラは鶴見五郎との一騎打ちで、セミはマイティ井上&寺西勇VSザ・プロフェッショナル(マスクマンで正体はダグ・ギルバート)&グラン・ラパン(オットー・ワンツ)。やっぱり渋いなあ。  

でも、71年2月の『ダイナミック・ビック・シリーズ』で初来日のミル・マスカラスと組んで猪木&吉村のアジア・タッグにも挑戦したギルバート(つまりプロフェッショナル)をナマで観ることができて満足だったし、会場に着いた時にちょうどグレート草津が会場入りしてきて、サインを貰えたのが嬉しかった。

 父親と一緒にプロレスを観に行ったのは、この時を含めて計5回。2回目の観戦は1ヵ月後の2月20日、同じ横浜文化体育館における新日本プロレス『新春バッファロー・シリーズ』最終戦。父親も1回ナマで観たらまんざらでもなかったのだろう。すぐに連れて行ってくれたのである。

 この大会は新日本のノーTV時代の最後の試合。この後のシリーズから坂口征二らが合流してNETテレビでのテレビ中継も決定していた。メインは猪木&柴田勝久VSトニー・チャールス&ジェフ・ポーツ、セミはエース外人のザ・タイガー(正体はのちのブッチ・ミラー)と山本小鉄の一騎打ち、セミ前では「テレビが付くまで猪木に協力する」と言っていた豊登VSブルーノ・ベッカー。偶然にも豊登の現役ラスト試合をナマで目撃できた。第2試合では若き日の藤波VS藤原も行なわれた。こうやって振り返ってみると、結構、貴重な試合を観ているのだ。

 その3ヵ月後、5月4日には川崎市体育館における新日本『ゴールデン・ファイト・シリーズ』で、タイガー・ジェット・シンが私服姿で山本小鉄に襲い掛かるのをナマ目撃。この時のメインは猪木とエース外人レッド・ピンパネール(アベ・ヤコブ)のシングルマッチだった。

 5ヵ月間に3試合もナマでプロレスを観ることができたわけだが、この後はパッタリ。中学1年生の夏休みに日大講堂に猪木VSカール・ゴッチの実力世界一決定戦(74年8月8日)、中学2年生の夏休みに、やはり日大講堂に馬場VSフリッツ・フォン・エリックのテキサス・デスマッチ(75年7月25日)を観に行っただけだった。

父親とのプロレス観戦はここでピリオド。初めて自分ひとりで観戦したのは中学3年生になっての76年6月26日、日本武道館における猪木とモハメッド・アリの格闘技世界一決定戦だ。全世界への衛星中継の関係で土曜日にもかかわらず試合開始は午前11時50分。学校を休まなければいけない。担任の先生は話がわかる人で「一応、受験生なんだから、学年主任の先生にバレないようにしろよ」と一発OK。私は大枚5000円で買った2階U列(つまり2階の21列目の席)のチケットを手に日本武道館へ。この時から私は"父親離れ"したのである。


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