<第120回>プロレス専門誌ゴングとの出会い(07.8.15)

 幼稚園の頃から、どんどんプロレスにのめり込んでいった私にとって運命の出会いはプロレス専門誌ゴングである。それは昭和45年(1970年)の4月。親戚の大学生のお兄さんが「景浩はプロレスが好きなのか? だったら、こういう本があるよ」と見せてくれたのが月刊ゴングだった。

これは大げさではなく、小学校3年生の私には刺激的で衝撃的だった。子供的にはカラー・グラビアがあり、ピンナップがあり、ブロマイドが付いていることに惹かれた。プロレス殺人技解剖などという付録ページもあった。早速、本屋さんに行って買ったのが、昭和45年本誌6月号。表紙は坂口征二がポール・ジョーンズに今で言うコブラクラッチをかけている写真で、カラー口絵はなぜかボリス・マレンコ&ハンス・モーターという渋い2人。厚手のモノクロ・グラビアは囚人男ザ・コンビクトの特集。『本誌カメラマンがとらえたその瞬間!』という見出しで洗面所でマスクを脱ぎ、タオルで顔を覆っている後姿の写真を見た時には大興奮! さらにマネージャー役の獣人パンピロ・フィルポ(実は8ヵ国語を喋るインテリ)と手錠で手をつないで寝ている写真を見て「おおっ!」。

 今、振り返ると、ゴングにはビジュアル的な面白さがあった。ガイコツをかじるスカル・マーフィー&ブルート・バーナード、電話帳を引き裂くディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、インタビュー中にドン・カーソンに斧で襲われそうになっている竹内宏介さんのショットなどなど。子供を興奮させる要素が散りばめられていた。後年、仕事をするようになってわかったのは、こうした手法は映画少年でもあった竹内さんのアイデアだった。あの時代にあって、竹内さんはいかに見せるか?≠ニいうプロデューサー的な才能があったのである。

 ゴングは私の宝物だった。『私のプライバシー』というコーナーでプロレスラーがどんな食事をしているのかを知り、『読者の誌上会見』というインタビュー記事では自分がインタビュアーになったような気になっていた。大人向けの読物で歴史も知り、海外情報にも強くなった。最もインパクトがあったのは怪奇男シリーズ=B墓場から現れるロス・クラオネスや死神ラ・ミューテの話には本当に怖くなり、ライオンを連れたエル・レオン(ティニエブラス)の写真を見た時は、これまた衝撃。タネを明かせば、東京スポーツ新聞社の櫻井康雄さんが写真だけ見て、あとは想像で書いていたストーリーだが、本当に夢があった。そうしたメルヘンの世界がゴングにはあった。

半年に一度の『写真画報』というグラビアだけの増刊号も凄く待ち遠しかった。当時の私のお小遣いは500円。本誌ゴング200円+別冊ゴング150円=月350円かかったから、『写真画報』を買うために、他には無駄遣いはしなかった。昭和47年10月に豪華写真集『ミル・マスカラスその華麗なる世界』が発売された時には850円という高額で自分では買えず、クリスマス・プレゼントにしてもらったのも思い出だ。

ゴングの発売日はよくズレた。本誌は25日、別冊は13日発売のはずなのに、予定日に本屋に並ぶことはまずなかった。私は近所の本屋さんを回って、1日でも早く出る店を探した。そして…あった! その本屋のお兄さんと仲良くなって「本当は店に並べるのは明日だけど、いいよ!」 と、早めに売ってくれるようになったのが嬉しかった。

当然、小学校にもゴングを持って行く。まだ3年生なのにオトナの本を読んでいるのは、ちょっと自慢だ。そして、それを楽しみにしていたのが担任の西郷宏先生。西郷先生は大学を卒業したばかりの新任教師。当時、テレビでは『飛び出せ!青春』がはやっていて、西郷先生は村野武範扮する河野先生っぽい感じ。お母さんたちも「西郷センセー!」とキャーキャー言うほどのモテモテの先生だった。

その西郷先生がプロレス好き。「こんな本、学校に持って来ちゃ駄目だぞー。小佐野には早すぎるんじゃないか? ちょっと預かっておくから」。
 給食の時間が終わると、ゴングを職員室に持って行って、放課後まで返してくれない。で、しばらく学校に持って行くのをやめると「あれ、新しい号は持ってきてないの?」 と、催促される。そんな西郷先生が大好きだった。

それにしても、それからわずか10年後に自分がゴングで仕事をするようになるとは夢にも思わなかった。ちなみに小学校の卒業文集で『将来なりたい職業』に私は"スポーツ記者"と書いている。

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<第119回>幼少の頃のプロレスの記憶(07.8.8)

 最近、日々のプロレスのことはダイアリーに書いてしまうので、正直な話、このプロレスコラムに書くネタがない。そこで今回は、私とプロレスの出会いでも書いてみたいと思う。

 多分、私と同年代の人はそうだと思うが、私がプロレス好きになったのは父親の影響だ。親父は昭和10年(1935年)生まれ。子供の頃、力道山に熱狂した世代である。

 テレビっ子だった幼少時代の記憶をたどると…アニメやウルトラ・シリーズは別として、大人向けのテレビで覚えているのは渥美清の『泣いてたまるか』、京塚昌子の『肝っ玉かあさん』などのホームドラマだが、やはり強烈に残っているのは金曜夜の日本テレビ『三菱ダイヤモンドアワー』の日本プロレス中継。夜8時から9時までプロレスを見て、そのあとに眠いのを30分我慢するとTBSで宇津井健の『ザ・ガードマン』が始まる。その頃は8時ぐらいには寝ないと怒られたのに、金曜の夜に限っては夜更かしが許されていた。それが何だか嬉しかった。

 昭和44年9月のロサンゼルスにおけるジャイアント馬場VSザ・シークの試合をテレビで見た記憶があるから、少なくとも7〜8歳からはプロレスを見ていたのだろう。

 今思えば、親父は善良なプロレス・ファンだった。
「おい、トルコ!(レフェリーのユセフ・トルコ)日本人ばっかり注意しないで、ちゃんと外人も見ろよ! ホラッ、外人はノータッチだ!」
 とテレビに向かって真剣に文句を言っていた。母親は吉村道明の試合になると「この人、いつも血だらけになるからイヤだ!」と、吉村の試合になるとテレビを見るのをやめて家事をしていた。

火の玉小僧≠ニ呼ばれた吉村は、いつも外人組に捕まって、散々やられて血だるまにされるが、最後は大逆転の回転エビ固めを決める業師として知られたレスラー。今の専門的な立場から見れば、試合を引っ張り、相手の持ち味を最大限に引き出して、その上でオイシイところを持っていく(つまり勝つ)という、まさに試合巧者。子供の私は「吉村ってかわいそうだけど、かっこいいなあ」と思ってみていたものだ。

 小学生低学年の子供は、まるでスポンジが水を吸うようにいろいろなことを吸収していく。私の脳ミソにはプロレスがドンドン吸収された。TBSテレビの『国際プロレス中継』も見るようになったし、馬場が出ないNETテレビ(現・テレビ朝日)の『ワールド・プロレスリング』も見るようになった。

 私はジャイアント馬場よりもアントニオ猪木が好きだった。今になれば、猪木が引っ張るだけ引っ張って馬場につなぎ、馬場がフィニッシュを決めるという役割りを理解できるが、当時は猪木がやられるだけやられて、最後は馬場がオイシイところをもっていくのが腑に落ちなかった。馬場がやられていると、猪木は反則カウントを取られても救出に入るのに、馬場は猪木の救出に入らない。そういう"いいコぶりっコ"も好きじゃなかった。それよりも、時には暴走して反則負けを取られてしまう猪木の方が、子供としては共感が持てた。いつの時代も子供は優等生よりガキ大将の方が好きなのだ。というわけで、より熱心に見ていたのは猪木主役の『ワールド・プロレスリング』の方だったような気がする。

 なぜか女子プロは見なかったが、東京12チャンネル(現・テレビ東京)がアメリカのフィルムを流していた『プロレス・アワー』も見るようになり、秋田書店から出版されたジュニア入門百科『プロレス入門』を買ってもらって、むさぼるように読んだ。

 この本は、東京スポーツ新聞社の山田隆さんが書いたもので、これによってプロレスの歴史も知り、フランク・ゴッチや力道山も覚えた。ただ、力道山を説明するのに"力道山"と"故力道山"と2つの表記があって、
「力道山と故力道山って違う人なの?」
 と母親に聞いた記憶がある。その時に"故"の意味を知ったというわけだ。そうやって子供の頃の私はプロレスの知識と、それ以外の知識を身に付けていった。幼稚園の頃、怪獣の名前で人より早くカタカナを覚えたように。

 今、振り返ると、私が子供の頃はプロレスはメジャーな娯楽であり、いくらでも触れられるチャンスがあったんだなあと思う。もう40年近くも前の話だ。


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<第38回>誰にでもチャンスはある!(07.8.1)

 8月5日、大阪で『G1クライマックス2007』が開幕する。アッと驚くような外部からの参戦はないが、かなり中身の濃い大会になるのは必至だ。

 AブロックはIWGP王者として勢いに乗っている永田、「これからの新日本は俺が仕切る」と言い切る蝶野、安定した実力を誇る日本大好きガイジンのバーナード、正念場を迎える曙、今はちょっと元気がないが昨年覇者の天山、WEW王座は手放したものの、勢いが衰えていない真壁。

 Bブロックは野人パワー全開でキャラが際立ってきた中西、復活を目指す前IWGP王者・棚橋、低迷を続けていたが、そろそろ"来そう"な中邑、人気爆発の越中、WEW王者になった矢野、今年のスーパージュニアを制し、普段もヘビー級相手に遜色のないファイトを見せているミラノ。

 ゴタゴタした時期の新日本は閉塞感がいっぱいだったが、今年に入ってからは、弾けた感じがある。誰が飛び出してきても許される自由な空気がある。そして正規軍、ブラック、GBHのパワー・バランスが拮抗しているからリング上が充実している。一見、地味なメンバーのようでいて、今年のG1は近年にないくらいのデッドヒートが予想される。

 元々、G1の精神は、その時の流れや実績に関係なく、参加者全員が横一線になって競い合うもの。全員が平等なのだ。個人的には真壁、越中、矢野、ミラノの活躍に期待したい。

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<第117回>船木誠勝の復帰について(07.7.25)

 船木誠勝が12月31日の『Dynamite!!』で復帰することになった。これをプロレス・ファンは、格闘技ファンはどう考えているのだろうか?私は単純に、またリングで躍動する船木が見られるという嬉しい気持ちが先に立っている。ただ、願わくばプロレスラー船木が見たかったというのが正直なところだ。

 週刊ゴングでは新日本の若手時代から船木に大きな期待を寄せていた。18年前の平成元年(89年)にはヨーロッパ武者修行時代の船木を"2001年の星"としてカラーで大きく取り上げた。当時の船木は19歳。11年後の2001年…21世紀に突入した時点でも31歳(同年3月で32歳)と、プロレスラーとしては旬を迎える年齢だということで"21世紀の日本プロレス界をリードしていく男"として注目していたのである。だが、船木はヨーロッパでのプロレス修行の成果を披露することなく、翌90年4月にUWFに移籍してしまった。

 UWF→藤原組→パンクラスと進んでも、私は船木から発散されるプロレスラーのムードが好きだった。試合後にファン・サービスでやるサマーソルトもそうだし、あのパンクラスの試合の中でも船木には(鈴木もそうだったが)プロレスラーならではの華があった。いつだったか、そんな話を船木にしたら「じゃあ、パンクラスがオフの合間にWWFにでも上がりますか」と笑っていたものだ。

 私は"プロレスラー、船木誠勝"をBML時代の柴田勝頼の中に見ていた。船木の指導を受けていた柴田はロープワークをふんだんに使った飛び技、打撃&サブミッション、従来のプロレス技とあらゆる要素をバランスよく取り入れた試合をやっていたが、もし船木がプロレスをやったら、きっと柴田のようなファイターなんだろうなあ」と思っていた。

 前田&船木のBMLとの決別によって船木のプロレスラーとしての復帰が消えてしまったのは残念だが、それでも再びリングに立ってくれるのだから、これは素直に応援したい。格闘家の船木として印象に残っているのは94年10月15日の両国での鈴木みのるとの一騎打ち(111秒で秒殺)の時にリングに向かう花道で見せた表情。体中から発散される殺気と尋常ではない眼。そしてラスト・ファイトとなった00年5月26日、東京ドームにおけるヒクソン・グレイシー戦で、落とされる直前にカッと見開いた眼と、試合後のコメントだ。

「格闘技っていうのは負けたら"死"なんですよね。本当に2回、3回っていうのは、こと格闘技に関してはないという風に自分は思ってますんで、潔く足を洗う決心をしました」  と語って、週刊ゴングが期待した2001年を迎えることなく、31歳1ヵ月でリングを降りてしまった。ただ、こうも言っていた。

「格闘技に答えはありませんでしたね、ええ。永遠に戦い続けることだと思います」  38歳になった船木は、改めて答えを見つけるために戦い続けようというのだろうか。


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<第116回>パワー・ファイターの時代よ、来たれ!(07.7.18)

 最近、見ていて痛快なのはROH世界王者・森嶋の豪快なファイト。去年3月の三沢戦から森嶋の弾けたファイトにハマり、当時の週刊ゴング編集長・木幡クンから「小佐野さんはモリシを買ってるんですねぇ」と、よく言われたものだ。190センチ、145キロの巨体なのによく動く。あんまり意味がないような側転ボディ・スクワッシュも好きだし、ラリアット1発で試合の流れを変えてしまうのも、私的にはイイ。あの圧倒的なパワーの前には理屈がいらないからだ。大型外人パワーに日本人がテクニックと頭脳で立ち向かうという従来のパターンを逆にしているところも痛快。

 もうひとつ、最近のお気に入りはマンモス佐々木と関本大介の真っ向肉体勝負。あのラリアットの相打ちのド迫力は誰も真似できない。総合格闘技では真っ向から体と技をぶつけ合うなどということは有り得ないわけで、これぞプロレスならではの面白さだ。

 パワー・ファイター、大型ファイターというと、昔は単調というイメージがあったが、今の時代では大型でパワーがあり、なおかつスピードもある万能型に変わってきた。そうなると体の小さいレスラーは太刀打ちできない。デカクて力があるというのは恵まれた才能である。

 健介、中西が40代に突入しながら、若い人間をパワーで蹴散らしているのも痛快だ。

 節制したアスリート・タイプが時流に合っているとは思うが、それよりも理屈抜きのプロレスラーといったタイプに惹かれる私は、やはり古い人間か?

 レスラーが小粒になってきている今、「これぞプロレスラー!」という体とパワーを持った人間の台頭に期待している。

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<第115回>PWF会長交代に想う(07.7.11)

 7月15日付でPWF会長がスタン・ハンセンから馳浩に交代することになった。1973年2月から01年1月まで約28年に亘ってハワイのロード・ブレアースが会長を務め、その後はハンセンが引き継ぎ、そして馳へ。否応なしに時代の流れを感じてしまう。

 私がハンセンに最後に会ったのは昨年8月。8・27両国におけるケアと川田の三冠戦の立会人を務めるために来日した時だった。その翌日、私は週刊ゴングの取材でハンセンと小島の対談をやった。現役引退後、腰などの手術をしているハンセンは、恐らく飛行機に乗って日本にやってくるのも辛い状態なのだろう。それを考えると、今回の会長交代は頷ける。

 引退してからのハンセンはPWF会長にふさわしくジェントルマンだったが、現役時代には取材しづらい選手のひとりだった。

新日本から全日本に電撃移籍を果たして馬場さんと一騎打ちを行なった82年2月4日の東京体育館では試合後にハンセンのコメントを取るために控室に行ったら、胸を突かれ、控室の外まで吹っ飛ばされてしまったのも思い出。天龍同盟と共闘している時には、まずハンセンに挨拶して話を聞かなければいけなかった。もし素通りして天龍さんのところへ行こうとしたら、暴れだすという有様だった。また、奥さんが日本人ということもあって、自分がどう書かれているかを知っており、記事に神経質な人だった。

 小島との対談の時に「ハンセンさんは現役時代、マスコミが嫌いだったでしょう?」と聞いたら、「嫌いだった。大嫌いだったよ」と笑っていた。昨年8月、初めてリラックスした気分でいろいろなことを聞けたような気がする。

 今のハンセンの健康状態は知らないが、ぜひとも8月26日の両国国技館には姿を見せて、馳と握手してもらいたい。

 新会長の馳はバランス感覚の優れた人だから、過去を大事にしつつ、新たな全日本の方向性を示してくれるだろう。馳センセイ、期待していますよ!


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<第114回>小島はどこまで自分を破壊できるか?(07.7.4)

 6・24後楽園ホールで遂にブードゥー・マーダーズ(以下、VM)入りした小島聡。シリーズ中は若手の真田、T28とのシングル戦が組まれたが、7・1横浜文体ではTARU、諏訪魔と正式合体。真田の急所にダイビング・エルボーを投下し、イスで殴打し、一度は反則負けに。渕取締役の再試合命令では真田をラリアットで葬った。

 今のところ、小島はVM入りの明確な理由を明かしていない。また横浜文体でのあからさまな反則負けは、これまでのお客さんを大切にする小島からは想像もつかない行為だった。

 私が思うには、小島が今現在やっているのは自分破壊だ。これまでの自分をぶち壊そうとしている。小島は"新しい小島聡"を創造する過程で避けられないことだと思っているのではないか。これは当然、大きなリスクを伴う。明るくて真っ直ぐな成年という、これまで支持されてきたイメージを失うし、三冠王座をはじめとする数々の実績がチャラになってしまうことも有り得る。

 ただ、年齢的にもキャリア的にも、子供たちに支持されるレスラーのままではいられないのは事実。イメチェンするには今しかないのだ。今までのカラーを通したら、永遠にエースになれないだろう。

 今のヒール・ファイトは新たな自分を見つける前段階。気が優しく繊細な小島がどこまで自分破壊をできるのか? 単にキャラクター上のヒールになってしまったら、それまで。ヒールのさらに上にある新しい小島聡はどんなものなのか? キーポイントとなるのは「俺たちが正義だ」という言葉である。

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<第113回>ハッスル考2(07.6.27)

『ハッスル・エイド2007』から9日…改めてプロレス・マスコミのハッスルへのアプローチの難しさを感じる。ハッスルの山口社長は「作品です」と言う。そう、確かに作品だ。だからハッスル系の人間がサムライTV『S−ARENA』にゲスト出演した時には気を遣う。なぜなら、彼らはハッスルの世界でキッチリと組み立てられたストーリーの中で行動し、発言するからである。それ以外のことを聞いても野暮になってしまうのだ。

 取材といっても立場は観客と変わらない。控室での取材はできず、リング上を見るしかないのである。かつて私はターザン山本!氏に「ハッスルは鑑賞するプロレスですよ」と言ったことがあるが、まさしく鑑賞だ。一番ラクなのはリングで起こったことをツラツラと書く。だが、これはまったく意味がない。それだったらハッスルのホームページを見た方がいい。あとは映画やテレビ・ドラマの批評のように、ハッスルというドラマを分析するという方法か。だが、そうなるとプロレスが置き忘れられてしまいそうでもある。

 私は冬木弘道の時代からエンターテインメント・プロレス肯定派だった。注目を集めるため、人の足を会場に向けさせるために面白おかしいストーリーや仕掛けがあるのはOKだ。私自身は難しいことを考えずに川田の歌も楽しんでいるし、田総統のトークも楽しんでいる。実際に面白いと思う。そこで"ちゃんとしたプロレス"を見せてくれればOKだ。ウソだが本当だかわからない世界…でも、そこに垣間見える本当。本当の部分がなければ従来のプロレス・ファンも、そうでない人も惹かれないだろう。

 では、その本当とは何か? それは関わっている人の姿勢、本気度だ。どんなキャラであっても真摯に取り組んでいる人間はわかる。だからこそファンは、かつては毛嫌いした田総統を楽しめるようになったのだろうし、RGを支持するようになったのだと思う。川田がデンジャラスKとはまったく違うモンスターKというキャラになっても嫌な感じがしないのは、根本の「お客さんを喜ばす」という姿勢がデンジャラスKもモンスターKも変わらないからだ。

 未だ賛否両論飛び交っている天龍にしてもそう。天龍の場合は"天龍源一郎"を貫くことでハッスルで特化した存在になっていたが、そのまんまで、ここまで足を踏み入れたということは本気の証拠。これだけのキャリアを持っての行動は凄いと素直に思う。

 私は、ハッスルに関しては作品の完成度と、その中の"本当の部分"を追っていきたい。


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<第112回>ハッスル考(07.6.20)

 ハッスルは、今までのプロレスの価値観をぶち壊し、新たなプロレスを創造するイベントということで出発したが、6月17日のさいたまスーパーアリーナにおける『ハッスル・エイド2007』を観て、まさしくそのためのイベントなのだということを痛感した。

かつて"最強"を謳った田と"王道"の代名詞だった川田がチャゲ&飛鳥の『YAH!YAH!YAH』を熱唱する。グレート・ムタがお笑い芸人のRGとタッグを組み、セクシー・タレントのインリン・オブ・ジョイトイ(キャラ上は別人のインリン様だが…)と試合をする。そしてメインでは天龍がHGに負けた。

 天龍とHGの試合については未だに賛否両論あるが、私が評価しているのは小細工なしの試合をしたことだ。中には"負けるにしても逃げ道がほしかった"という意見もあるが、むしろ逃げ道なしに負けた天龍は逆に凄いと思う。むしろ昨年の『ハッスル・マニア2006』でエスペランサーがレーザー・ビターンやアルティメット・ビターンを使ってHGに勝った試合の方が私には落胆が大きかった。

 一度引退した田がエスペランサーとなってリングに上がることも凄い決断だったと思う。田延彦の名声を消しかねないものだった。だから、エスペランサーには戦いを見せてほしかったのだが、彼の覚悟はエンターテインメントに徹するというものだったか。あるいはかつてのファイトができないことで小細工によって逃げたのか。"逃げ"が感じられたからショックがあったのだ。こうなったらハッスルというファイティング・オペラの世界の中で、あえて天龍とエスペランサーの小細工抜きの戦いを見たいものだ。

 とにかくハッスルで起こっていることを冷静に考えてみれば凄いこと。それぞれのレスラーにとって、これまで積み上げてきたことが一瞬にして崩れ去るリスクを背負ったものなのだ。前述した光景を目の当たりにして、昔からのプロレス・ファンが「これまでの殻をぶち破った」と思うか、「過去、応援していたものは何だったんだ!?」と失望してしまうかは紙一重である。

 今現在、私のハッスルに対するスタンスは、強く支持もしないが、決して否定はしない。今、プロレスに限らず、さまざまなイベントはバラエティに富んでいる。だとしたら、プロレスにタレントが出てきたっていいし、プロレス以外の出し物があったっていいと思う。例えば、6月10日の後楽園ホールにおける『武藤祭り』にしても、ダチョウ倶楽部、神奈月というプラスアルファがあったからこそ超満員札止めになったのではないか。高いチケット代を払うなら、より多くのお楽しみが欲しいというのは当然だろう。

 ハッスルの不思議な魅力は、何が起こるかわからないという期待感&不安感が同居していることなのではないか。それはイコール非日常。本来、プロレスは非日常空間を提供するものだったのに、いつしかレスラーが普通の人になり、試合会場は日常空間になってしまった。それを考えると、ハッスルでは有り得ないこと(あるいはあってはいけないこと)が起こったり、思いがけない人物が登場する。本当に非日常空間なのだ。

 果たしてここからハッスルはどういう道を提示していくのか。ひとつ言えることは、レスラーにとって、生半可な気持ちで触れられるものではないリスキーな舞台だということだ。

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<第111回>私の務め(07.6.13)

 かつてゴングでお世話になった漫画家の河口仁さんから、お手紙をいただいた。東スポで連載している『日本マット事件簿 タブーなき激筆!!今明かすあの日あの時の真相』を、昔のことを懐かしく思い出しながら読んでいますとのことで、書いている身としては実に嬉しかった。

 河口さんは昔も今も変わらず天龍支持者。天龍が阿修羅・原と龍原砲を発進させた1987年6月6日、長門市スポーツセンターに河口さんがいたことに驚いたが、河口さんも私がいたことに驚いたという。

 スポーツ新聞は人事異動が多いから、どうしてもプロレスのベテラン記者は少なくなってしまう。専門誌にしても年齢がいけば管理職になったり、部署が変わるので、やはり世代交代がある。そんな中で、一度は管理職になりながら、フリーになってこの業界に踏みとどまっている私は、気付いたら古株になっていた。となると、どうしても過去のことを書いてほしいというオファーが多くなる。今、私は月に十数試合、ナマで観ているだけに、"今のこと"を書かせてもらえる場がないのが不満なのだが、過去のことを書くのはキャリアを積んだ者の務めだと思っている。

 プロレスは"今"だけじゃない。ちゃんと"歴史"がある。それを知ることで、より楽しめるジャンルだと思っている。だから、私は過去の歴史について書いてくれと言われれば、書き続ける。それによって河口さんのような古くからのファンが懐かしんでくれればいいし、若いファンに「そんなことがあったのか!」と知ってもらえれば幸いだ。

 中には「そんな話は知ってるよ。また書いているのか!?」と思うファンもいるだろうが、それでも私は書き続ける。なぜなら、常に新しいファンがいるからである。

 過去を伝えるのは私の務めのひとつ。でも一方では、今現在のプロレスもきっちりと押さえていく。そういうプロレス・ライターでありたい。新聞社や専門誌は、どうしても担当制があるから、今のプロレス・マスコミの中では、多分、私は最もいろいろな団体の試合を観ている人間だという自負はある。また、常にそう言える自分でありたい。


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