<第10回>W−1の衝撃!

 先週、プロレス界の低迷について書いたが、それに応えるようにビッグマウス(上井文彦代表)が大きな話題を提供してくれた。一時は開催すら危ぶむ声があった『WRESTLE−1』の8・4両国国技館開催決定と、曙vsグレート・ムタ、長州力vs佐々木健介の2大カード決定である。

 これは我々プロレス・マスコミにとっても衝撃的なこと。曙vsムタはこれまで一度も話題になったことがない“意外な夢のカード”だし、長州vs健介は、これまでの両者の経緯を考えれば“絶対に有り得ないカード”なのだ。

 最近ではカードが発表された時点で、だいたいの試合内容が想像できてしまうものが多いが、曙vsムタはまったく予想ができない。予想外のカード、絶対不可能と思われるカードを実現させるというかつてのプロレスのお家芸はここ数年、PRIDEやK−1に持っていかれてしまっただけに、今回のW−1はクリーンヒットと言っていいのではないか。

 ビッグマウスの中で前田日明の存在ばかりが大きくなってしまい、私個人としては「一体、どんなプロレスを目指すのか? 格闘技色が強いプロレスだとしたら、意味がないのではないか?」と思っていたが、今回の2大カードは上井代表らしいプロレス的センスであり、実に嬉しいものだ。

 8・4両国は『WRESTLE−1 GP2005』と銘打ったシングル・トーナメント開幕戦の舞台となり、10・2代々木で2回戦、11月下旬〜12月上旬に都内近郊で準決勝・決勝を行なうという。今のプロレスはライブ性&勝負性で総合格闘技に押され、エンターテインメント性ではWWEに劣るという中途半端な位置にあるが、そんな中でW−1GPは「総合格闘技のトーナメントとプロレスのトーナメントと、あらゆる要素を考えてどちらが面白いのか勝負してやろう!」という気概が感じられる。ターゲットはズバリ『PRIDE』だろう。さらにはエンターテインメント・プロレスを標榜する『ハッスル』も視野に入っていると思う。そこにはDSE(PRIDE&ハッスルを主催)vsFEG(K−1主催&W−1政策委員会)という裏の構図もあるだろうが、そんなことは関係ない。面白いプロレス、凄いプロレスを提供してくれればいいのだ。

 今回の発表はノアの7・18東京ドームに続く嬉しい衝撃である。

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<第9回>プロレスの低迷に

 BBSにマサ札幌さんから、プロレスの低迷についての書き込みがあった。そこで私なりの考え方を書いてみたいと思う。

 まず、本当にプロレスは低迷しているのかということだが、このコラムの第2回で書いたように危機的状況であるのは間違いない。
確かにそこそこのお客さんを集めている団体もあるし、例えば6月19日の昼(全日本)&夜(新日本)の後楽園ホールは共に超満員となった。
では何が危機的状況なのかと言うと、新しいファンを取り込める環境ができていないということである。マサ札幌さんもテレビ放映の現状を嘆いていたが、深夜放送をわざわざ見て、プロレス・ファンになろうという人は、そうそういないだろう。では、放映時間帯を夕方に移せるかというと、スポンサー関係などを考えれば、現実的には無理な話。

とにかくゴールデンタイムを外れたのが一番痛い。私が子供の頃はゴールデンタイムだったから、チャンネルを変えているうちに嫌でもプロレスが目に入る。そこで興味を持ってファンになった人も多いはずだ。

 今、プロレスに触れるのがいかに困難か。今年の春、私は週刊ゴングの企画でHikaruのインタビューをすることになり、Hikaruの試合を見ようと思ったが、全女のテレビ放映はなく、サムライTVからビデオを借りるしかなかった。私がこういう仕事をしているから入手できたのであり、普通の人が気軽に女子プロレスを見ようと思ったら、スケジュールを調べて、いきなり会場に行くしかないのだ。これでは女子プロ・ファンを増やすのは難しい。

 今のプロレス団体は、新日本とノア以外は地上波を持っていないから金銭的にも苦しい。だから、それまでのプロレスならではのものだった豪華な演出、大物格闘家のスカウトもPRIDEやK−1に負けてしまう。

 こうした厳しい状況の中、一番必要となってくるのは「プロレスは面白い!」という口コミしかない。DDTやDRAGON GATEが人気を博しているのは、口コミである。初めは小さい話題でも、それが広がっていけば、いずれブームになっていくのが今の若者文化だ。気が遠くなるような作業だが、口コミ=信頼であり、これほど強いものはない。

 また、あのライブドアがドラゴンドアを支援するというのも興味深い話。これは美人広報がディーバになるとか、YASSHIが堀江貴文社長をパートナーにしろと要求したとかのプロレス内的な話題ではなく、IT企業がこれを契機にプロレスにどんな可能性を見出すかがポイントである。否応なしにプロレス・ビジネスは変革を迫られているのだ。


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<第8回>輪島大士さん

 BBSに「輪島さんにインタビューしてください」という書き込みがあったので、今回はカタイ話はやめにして輪島さんの思い出を綴ろうと思う。二子山親方の死去で久々にテレビで観た姿も懐かしかったので…。

 私が輪島さんに初めて接したのは86年5月中旬のハワイだった。その1ヵ月前の4月13日に全日本プロレス入団を発表したことで、輪島さんは全日本担当記者だった私の取材対象になったのだ。

 この時の取材では緊張のしっぱなし。子供の頃にテレビで観ていた歴史に残る大横綱だけに、どう接していいのかわからない。とりあえず、相撲出身の天龍さんに相談してみたら、
「横綱って呼ぶのが無難だよ。俺だって最初は関取とか天龍関って呼ばれた方がピンときたからね。"天龍さん"なんて呼ばれると"なんだよ!"って感じだったからね」
とのこと。だが初対面で「横綱!」と声を掛けると、
「相撲を辞めて、裸で一からやり直すんだから、横綱はやめてくれい!」
と言われたので、以後は「輪島さん」と呼ぶことにした。

 このハワイ取材当時はまだ肉体改造中で裸を見せない時期だっただけに全日本のガードもキツく、個人的に接することはほとんどできなかった。収穫は顔を覚えてもらったことぐらいか…。

 だが、同年11月1日に故郷の七尾でデビューした後の鶴田&天龍とのノースカロライナ遠征に同行した時は面白かった。宿泊先はモーテルのような簡素な場所。というのも、ここに東京レストランという日本食レストランが入っていたから。輪島さんは日本食がないと駄目なのだ。それも1階のレストランのすぐ横の部屋にチェックインし、何かにつけて「おーい、ボク!」とレストランの若い衆を呼びつける。

 私もすぐに"お付の人"にされてしまった。夜10時頃になると必ず輪島さんから呼び出しの電話がかかってくるのだ。それも、
「オニギリ作ったから、食べに来いよ!」 というカワイイ電話。部屋に行くと大きなオニギリが用意されていて、日本から持ってきた時代劇のビデオを一緒に観る羽目になる。別に何をしてくれというわけではなく、傍に人がいないと駄目らしい。
「昔はいつも大勢の若い衆がいたろ? だからひとりでいるのは苦手なんだよ。それより俺が作ったオニギリを食えよ!」 と輪島さん。結構、人に気を遣う優しい人だった。

 おかしかったのは、とにかく日本スタイル。ベッドに寝ると息苦しいとかで、マットレスをフロアーに下ろして布団風にし、ベッドの上には電気釜(米を食べないと力が出ないらしい…)が置いてある。BGMはもちろん演歌だ。だが、日本に国際電話をかける時だけはBGMがカントリー&ウェスタンに変わって「いやあ、アメリカは俺に合ってるんだよ」などと喋っているから、これまたカワイイ。

「レスラーの名前を覚えました?」と聞くと、ホーク・ウォリアー=ポーク、ダスティ・ローデス=ダスチン・ローデー(耳で覚えたならローズになるはずだが)。

 そんな輪島さんだが、プロレス的な感覚は鋭かった。
「ローデーは肘を突き出しただけで、体育館のお客さんが総立ちになるだろ? あれは凄いよ! ああなるまでに何年かかったんだろう。ああいう武器を持ったら強いよなあ。あのお客さんを一瞬にして惹きつけるだけの魅力を身に付けたいよ。もうひとり派手な奴…リック・フレアーがプロレスの横綱なんだろ? あいつは貫禄がある。華があるよ。さすが横綱だ!」
 と、無邪気に語っていたことが思い出される。まったく違う世界から来て1年も経たずに、ある意味でのプロレスの本質を衝いていたのだ。

 周りがもっとサポートしてあげたら、輪島さんはプロレスでも大成していたと、今になって思う。

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<第7回>D-GATEの戦略

 6月5日、DRAGON GATEの札幌テイセンホール2連戦の2日目を取材した。今、DRAGON GATEは7月3日の神戸ワールド記念ホールに向かって物事が進んでいる。この6・5でもマグナムがケンスキー佐々木に佐々木健介との対戦を要求し、天龍&マグナムvs健介&]が決定。TAKAvs横須賀享の勝者とドリームゲートの防衛戦を行なう望月がタッグマッチで享に敗れるハプニング。また、CIMAも斎藤了に敗れ、これからCIMA率いるブラッドジェネレーションと斎藤了を新リーダーとするDFの間にも7・3までに新展開が生まれるだろう。

 いわば、この札幌は7・3への序章だったわけだが、それを大河ドラマの通過点にせずにキッチリと観客を満足させる試合をするのがいいところ。またマイク・アピールにしても、7・3神戸についてだけでなく、9月の札幌大会を意識して喋っているとことがニクかった。

 DRAGON GATEは大きな大会に照準を絞って流れを作っているという点では他の団体と同じだが、注目すべき点がふたつある。それは@マスコミに頼らないAビッグネームに頼らない、だ。

 ハッキリ言って知名度のある選手は皆無。となると、専門誌は別として一般のスポーツ紙がDRAGON GATEを大きく取り上げることはない。それを理解した上で、基本を"ファンの口コミ"にしているのだ。だから大河ドラマがあったとしても、お金を払って観に来てくれるお客さんを大事にして1大会1大会、丁寧に作り込んでいる。マグナムいわく、

「ウチはナンバー1にはなれないでしょ。だって、どんなに盛況でもマスコミがきちんと扱ってくれないんですから。別にナンバー1じゃなくてもいいんですよ、メジャーとかインディーの枠に捉われないオンリーワンになれば」。

 だからビッグネームにも頼らない。天龍、健介、高山、川田らの初登場はいつも直前、あるいは当日発表のサプライズのXだった。ビッグネームに頼らずにチケットを売り、満杯が確定した上で発表するというのがDRAGON GATEのプライドと言っていいだろう。

 まだ闘龍門ジャパン時代に堀口元気と争って初代王者になったCIMAは言った。
「今日のメイン…単なるプロレス少年(CIMA自身のこと)と、単なる若ハゲ(堀口)や。そいつがよ。これだけのマスコミの前でPPV生中継で試合できるんや。夢や。ここは技やない、力やない、デカさやない…心や。心があれば夢は掴める!」。

 みんな、プロレスラーになりたくて仕方がなかった選手たち。夢を信じている選手たち。だから彼らはファンの空気を読めるし、ファンも応援したくなる。レスラーとファンの関係がこれほど心地好い団体はない。


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<第6回>ストーリー性

 新日本の5・29後楽園ホール大会に藤田和之の乱入予告がありながら、結局、姿を見せずという展開があった。ハッキリ言って、これはダメだろう。チームJAPANの本隊への心理的揺さぶりということだが、そこにはお金を払って観に来たファンの気持ちは不在なのだ。

 心理作戦で乱入を匂わせながら、結局は何もなしというのは、話としては許せる。だが、ファンのことを考えれば、藤田が姿を見せない代わりに、アッと思わせる違う何かを提供するべきだ。

 ダイアリーに書いているように、この5月29日には、私は全日本の神戸大会にいた。これまたハッキリ書かせてもらえば、全日本の今シリーズは何の方向性もなく、マスコミ側からしたら「ちゃんと記事がかける方針を立てろよ!」となるが、実際には神戸は大盛況。とにかくファンが試合を純粋に楽しんでいたのだ。

 その光景を見て「本来、プロレスは、その土地土地の人が楽しめればいいものなんだな」と痛感させられた。団体が考えなければいけないのは、報道してくれるマスコミよりも、お金を払って観に来てくれるファン。マスコミを意識してストーリー性ばかりに走ったら本末転倒である。考えてみれば、昔のプロレスにはストーリー性はほとんどなかった。マスコミ側もストーリー性よりも純粋に試合を追っていた。要はテレビ中継のある日に取材に行けば十分だったのである。

 それが変わったのは大仁田FMWが出現してからだ。大仁田はとにかくマスコミに取材に来てもらうために、毎日、何かしらの事件を起こして連続ドラマを作ることを思いついた。そうなるとマスコミも話をつなげるために追いかけなければならなくなる。そして、シリーズはビッグマッチに向けての伏線で、最後のビッグマッチでストーリーの決着を見るという方式になっていった。それをどこの団体も真似るようになって今日がある。

 この発想と企業努力は素晴らしい。連続ドラマは一度見たら、次が見たくなるというもの。その成功例が大企業WWEである。だが、下手をすると普通のシリーズは単なるビッグマッチへの通過点となってしまい、「何だよ、俺の土地に来た時の試合は連続ドラマの途中に過ぎないのか」と地方のファンにそっぽを向かれかねないというリスクもあるのだ。

 ストーリー性は大事な要素だが、1大会たりとも流してはいけない。今、ノアが絶大な人気を誇っているのは、ストーリー性がありながらも1大会1大会でキッチリとファンを満足させているからだと思う。ズバリ言って「ノアはちゃんとやってくれる。はずれはない」というプロレス・ファンの信頼感だ。

 そういえば、天龍が天龍同盟を始めた当初、こんなことを言っていた。 「テレビを観て面白いと思ったら、会場に来て観てほしい。テレビは予告編…ナマの会場でガッチリと見せつけてあげるから!」。

 ストーリー性がなければファンの興味をそそらない、だがストーリーにばかり走るとビッグマッチ以外はおざなりになってしまう。ストーリー性と試合内容のバランスがうまく取れる団体がこれから生き残っていくのではないか。

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<第5回>天龍源一郎-3

 私が天龍革命に傾倒していったのは、前回書いた鶴藤長天キャンペーンが挫折したからではない。もちろん、そのことについては申し訳ないという気持ちはあったが、純粋に天龍と阿修羅の行動を「凄い!」と感じたからだ。

 まず、天龍革命を評価したのは、権力への反逆という通常のパターンではなく、あのジャイアント馬場を説得しての"無血革命"だったということ。普通、革命などというと「上にのし上がってやる!」という個人の野望からスタートするものだが、天龍の革命は全日本のレスラーの意識革命にあった。もちろん、そこには「熱い闘いをやりたい!」という個人的欲求もあったが、根本は長州らが去った後の全日本を何とかしたいという愛社精神。それを汲み取ったからこそ、馬場さんも「好きなようにやってみろ」と言ったのだ。プロレス雑誌で"愛社精神"という言葉が使われるようになったのは、天龍が行動を起こしてからである。

 リング上においては、最初にファンではなくマスコミにターゲットを絞ったことが新鮮だった。
「まずは毎日、観に来るマスコミとの勝負だよ。ということはマンネリのファイトはしないということ。マスコミの心を動かせなければ、ファンの心を動かすことは到底できない」
 というのが天龍の考えだった。だからタッグマッチの面白さを提供するために様々な合体殺法を編み出した。サンドイッチ・ラリアット、サンドイッチ延髄斬り、スローイング・ラリアット、阿修羅が相手の胴に組みついて固定したところに天龍が延髄斬り、そのまま阿修羅がラリアットという2段攻撃、阿修羅がベアハッグに捕らえた相手に天龍がラリアット…と、観る者を飽きさせないのだ。

 試合の基本的なスタイルは、従来の全日本プロレス・スタイルにジャパン・プロ勢のスピーディーさを取り入れたものだった。まずロックアップからヘッドロック→ロープに振ってタックルという、リング全体を使ったダイナミックなもの。ここに縦の動きを加えたのが、のちの四天王プロレスのスタイルと言っていい。

 試合時間の長さも天龍革命の特徴だった。どんな田舎の会場でも平均20分を越えていた。それもズルズルと引き伸ばしての20分ではなく、動き回っての20分。
「お客はメインまで2時間も待ってるわけでしょ。それがやっと出てきて10分で終わりってことになったら"手を抜きやがって、この野郎!"と思うでしょ。それに"やっぱりテレビと違って適当にやっているんだな"なんて思われたら、終わり。どこの会場でも目一杯やって、次にその場所に来た時に、前に観に来た人が友達を連れてくれば、観客動員が増えるわけよ」
 と、当時の天龍。この考え方を受け継いでいるのがプロレスリング・ノアだ。

 とにかく何もかもが徹底していた。のちに天龍同盟専用の移動バスも出来たが、当初は天龍と阿修羅は時刻表とにらめっこして我々、マスコミと同じく電車を乗り継いでの移動。それは、同じバスに乗って顔を合わせたら、試合で手心を加えてしまうおそれがあるからだった。

 天龍革命が勃発した当時、世間は新生UWFブームだったが、私は相手の持ち味を殺し、受け身も取らずに勝つことを優先するUWFよりも、相手の持ち味を引き出して真正面から技を受け、その反撃も半端ではない天龍同盟の試合スタイルの方が上だと信じていた。いや、過去形ではなく、今もそう思っている。UWFの台頭でプロレスが揺らいでいた当時、私のプロレス記者としてのプライドは天龍革命にあった。


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<第4回>天龍源一郎-2

 私が本当の意味で天龍源一郎に傾倒していったのは1987年1月から週刊ゴングで『鶴藤長天=格闘頂点』というキャンペーンを張ってからだ。これは鶴田、藤波、長州、天龍の名前からもじった、当時のニューリーダー4人の越境対決を実現させようという趣旨でスタートしたもの。話題作りに終わらせず、本気で実現させようというものだった。

 そのスタートは4人のコミュニケーション。そこで、いきなりこの4人を直接会わせるのは不可能な状況だったから、それぞれに毎週話を聞いて誌面に載せ、それによって4人それぞれに他の3人の考えを知ってもらおうという戦略が生まれた。全日本担当記者だった私は鶴田、長州、天龍の3人の取材を一手に引き受けることになったのである。

 もちろん、4人全員がこのキャンペーンに賛同してくれた。中には「今こそ、4人が同じテーブルに着いて話し合いの場を持つべきだ!」という記事向きの発言をしてくれる人もいたが、その一方で「そういう場を作ってくれれば…」という、建前だけの逃げ≠フ姿勢も否定できなかった。「俺が他の3人に声をかけるから、セッティングしてくれ」という意見は皆無だった。

 そんな中で、机上の空論を語るのではなく、現実問題を踏まえて考えてくれていたのが天龍。 「前向きな考えを持っていても、その一方でやっぱり駄目だろう≠チて気持ちもあるわけだから、ある一線以上のことは言えないんじゃないの、みんな。それに喋ったことが誌面に載るということは、それぞれの団体関係者も読むってことだからね」
「ゴングだけが独走して、他のマスコミがソッポ向いたら実現できないよ。マスコミ間の協調も大事だと思うよ」
「4人が会ったとしても、それが記事用の対談になってしまったら意味がない。腹を割って、本音で喋れる状況を作らないとね」
「会社を説得しても、今度はテレビ局っていう問題もあるでしょ。前向きに考えれば考えるほど、問題が派生してくるから…慎重に喋らざるを得ないんだよ」
 記事的に考えれば天龍の発言は一番地味だったが、私は上辺だけでなく、真剣にキャンペーンに取り組んでくれる天龍が最も信頼の置ける人だった。
「藤波はもう1回、長州とやりたいっていうのが本音じゃないかな。鶴田と天龍は、ただその延長線上にいるだけなんじゃないの?」
 という言葉は引っかかった。

 私の著書『昭和プロレス維新』を読んでいただければ、当時のマット界裏事情をご理解いただけるはずだが、このキャンペーンのスタートと同時に新日本は長州に接触してUターンを画策しているのである。もちろん、当時はそんな動きはまったくわからなかったが…恐らく長州は、このキャンペーンで毎週、話を聞きにいく私に「こいつはどこまで知っているんだ?」と疑念を抱いていたに違いない。

 2月に入ると長州の新日本Uターンが公となり、このキャンペーンは挫折することになった。
長州の新日本Uターンが決定して何日かした後、天龍は「なっ、俺の言った通りだろ…」と寂しく笑った。

 私は真剣にキャンペーンに取り組んでくれた天龍に恥をかかせてしまったし、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そして長州という恋人≠失った天龍のファイトは明らかに精彩を欠いてしまった。

 長州離脱から3ヵ月…5月16日に『スーパーパワー・シリーズ』開幕戦を取材するために小山ゆうえんちへ。小山に向かう新幹線で偶然、阿修羅・原と会った。当時の原はフリーの一匹狼という立場。全日本の道場に居候していたが、選手バスではなく個人移動だったのだ。原は私を見つけると、こう話しかけてきた。
「俺も今、悩んでいるんだよ。長州と源ちゃんをターゲットとしてやってきたのに、長州は離脱して源ちゃんも元気ないだろ? 俺も目標がなくなっちゃうよ。何とか源ちゃんに立ち直ってもらって、また熱い試合がしたいんだよな。リング上では敵なんだけど、今の源ちゃんを見てると何か力になってあげたいと思うんだよ」。
 龍原砲結成以前から、原は天龍に惚れ込んでいた。だからこそリング上では牙を剥いていたのである。

 そして、この日の夜に天龍は行動を開始した。
「長州たちがいなくなった現実は受け止めなくちゃいけない。お客さんにフレッシュなカードを提供するためにも、俺はジャンボ、輪島と闘いたい。ジャンボの背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れたよ!」
 と発言したのだ。だが、天龍の主張はなかなか通らなかった。馬場さんは天龍の真意を確かめるまでウンとは言わなかったのである。日に日にイライラを募らせる天龍。「この主張が認めてもらえないなら…」と、全日本離脱を示唆する発言まで飛び出した。こんな天龍をバックアップしたのは原だった。「オイ、天龍! お前が行動を起こすなら、俺もやるぞ」とアピールし始めたのである。

 馬場さんが遂にGOサインを出したのは6・1金沢大会終了後。この日、天龍はタイガーマスク(三沢光晴)の猛虎七番勝負の相手を務めたが、スランプ気味だったタイガーの力を目一杯、引き出したのだ。これを見た馬場さんは、
「タイガーは負けはしたけど、これを機に伸びていくだろう。これはタイガーに限らず、他の選手にも言えること。ファンも望んでいるだろうし、こういうカードをドンドン組んでいきたい」
 と、天龍の気持ちを認めたのである。

 その3日後の6月4日、東京スポーツの全日本担当だったS記者から電話がかかってきた。
「今日、名古屋のシャンピアホテルで天龍さんと原さんが話し合いをするらしいよ。馬場さんは天龍さんの好きにしていいというから、面白い展開になるんじゃないかな」。

 残念ながら、私は名古屋に行けなかったが、ここで天龍と原は合体を表明して龍原砲が誕生。ここから天龍革命=レボリューションがスタートした。
 さらに2日後の6日、またまたS記者から電話がかかってきた。
「さっき馬場さんに聞いたら、今日、天龍さんと原さんを組ませるらしいよ」。

 場所は長門市トレーニングセンター。この2人が合体するとなったら、見ないわけにはいかない。当時の週刊ゴング編集長・舟木さん(現・株式会社アッパー代表取締役社長)に電話を入れて、急な出張を認めてもらい、飛行機で山口宇部まで飛んで、さらに在来線を乗り継いで午後6時前に会場に着くことができた。廊下で天龍とバッタリ出くわした。私の顔を認めた天龍は、
「おっ、来たの? でも試合前は喋らないよ。沈黙は金なりって言うだろう」
 とニヤッ。その顔には"まあ、見てろよ"と書いてあった。

 試合は天龍&原vs輪島&大熊。とにかく凄い試合だった。天龍の輪島に対するチョップ、延髄斬りが半端ではないのだ。それこそ心を折るほどの迫力! サンドイッチ・ラリアットという見たこともない合体技まで飛び出した。

「ジャンボ、輪島を本気にさせて、長州が離脱して冷めてしまった全日本マットを俺たちが活性化させてやるよ。ゴングの鶴藤長天キャンペーンは立ち消えになってしまったけど、全日本で光る存在になって、新日本の連中に"闘うなら天龍と!"と言わせてみたい。最終目標は阿修羅と一緒に新日本に上がることだよ!」。
 迫力に満ちたインパクトのあるファイト、そして試合後のこのコメント…私は全日本担当記者として天龍革命に賭けてみようと思った――。(次回に続く)

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<第3回>天龍源一郎-1

 このサイトを見ている方から頂くメールで一番多いのは「天龍について書いてください」というもの。やはり私には天龍番というイメージがあるようだ。これは光栄なことである。思えば今から18年前の87年6月に天龍革命が起こって以来、私は天龍源一郎というレスラーを追いかけてきた。もちろん週プロにも新聞各社にも天龍番と言われる人はいたが、社の都合で担当者が変わり、気付いてみたら18年間、追ってきたのは私ひとりになってしまった。つくづく私は幸せだと思う。

 私が天龍というレスラーに興味を持ったのは、ゴングが週刊化される以前のこと。ハッキリとは覚えていないが、82〜83年頃だと思う。テレビのボーリング大会に天龍が出演し、その写真を撮りに行った時のことだ。それまで私は天龍と喋ったことがなかった。月刊誌時代は今の編集取材記者とは違って完全な編集者。原稿を執筆者に依頼し、その原稿を整理して入稿するというのが主な仕事で、取材らしい取材はなかったのだ。それにイメージ的に天龍は仏頂面で取っ付きにくい感じがしていたので話しかけることもなかった。むしろ気さくなジャンボ鶴田の方が話しかけやすく、顔見知りになっていたと思う。

 そのボーリング大会の合間に、当時の全日本広報だった飯山和雄さんに「小佐野さん、天龍選手とお茶でも飲みましょう」と喫茶店に誘われたのが、天龍との出会いだ。記者は私ひとりだけだから、テーブルには私と天龍、飯山さんの3人だけ。これといって話題もないし、参ったなあと思っていたら、天龍の方から話しかけてくれた。

「ゴングの人なの? いや○月号の読者の欄に××っていう投稿があったけどさ、俺は△△だと思うんだよね」  と、いきなり読者ページの話になったからビックリ。"読者のページをちゃんと読んでいるレスラーっているんだな。プロだよなあ"という新鮮な驚きがあったのだ。こうなると私も乗ってくる。取っ付きにくかったはずが、実は高校時代に新日本プロレスのファンクラブをやっていたことなどをペラペラと喋っていたような記憶がある。

 そして84年5月にゴング週刊化。私は全日本プロレス担当記者になった。元々、新日本ファンだったから、新日本担当になっていれば多くのレスラーを知っていた。だが、全日本には、ほとんど知っている人がいない。となると、知っている人から取材してしまうのが人情というもの。全日本担当になって初めてのインタビューは、やはり天龍だった。出来上がった本を見せると、
「フーン…小佐野クンは変に誇張しないで、ちゃんと俺が言った通りに書いてくれるんだな。あっ、でも気をつけなきゃいけないな、プロレス・ファンだから。それに新日本のファンだったしさ(笑)」
 とポツリ。それから何かにつけて声をかけてくれるようになったのだ。

 85年に入ると長州らジャパン・プロレス勢が全日本マットに上がってきた。その頃になると全日本の選手のほとんどと話ができるようになっていたし、ジャパン・プロ勢は元々が新日本だから、みんな知っている人ばかり。凄く取材がしやすかった。

 だが、反面で取材現場はピリピリしていた。全日本の選手も新日本の選手も「負けてなるか!」と凄い対抗意識を燃やしていたからだ。どちらかに取材が偏ると、もう一方の選手から睨まれる。ある時、全日本の控室に荷物を下ろしたら、すかさず天龍の声が飛んだ。
「何だ、ウチの控室を荷物置き場にしてジャパンの取材に行くのか? わかったよ!」
 天龍も、かなりピリピリしていたのである。

 根っこの部分が違うから、選手間でも不満が出てくる。全日本の選手が「ジャパンの奴らは基本を知らないから、危なくてしょうがない」。対するジャパンの選手は「全日本の連中はちんたらしやがって。試合のテンポが合わないんだよ」。

 だが、不思議とジャパンの選手から天龍への不満は聞かれなかった。
「天龍さんは何をやっても文句を言ってこないし、真正面からドンと受けてくれるから気持ちよく戦えるよ。でも、こっちがやりたいことをやった分、反撃も半端じゃないから、怖いけどね」
 という声が多かった。また、天龍とシングルマッチをやったあるレスラーからは、
「記事にしないでほしいんだけど…この前、天龍さんから電話がかかってきてビックリしたんだよ。"あれがいい試合にならなかったのは、俺にも責任がある。必ずもう1回シングルで戦えるチャンスを作るから、その時は目いっぱい、いい試合をやろうな"って。器が大きい人だよな」。

 そんな"内部の評判"を聞くにつけ、私はレスラー天龍と、人間・天龍に惹かれていくようになっていった。(次回に続く)


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<第2回>今、そこにある危機

 いよいよもってプロレスは危機である。こんなことは誰でも書いていることだが、最近は身をもって感じさせられることが多い。今やフリーランスということで、いろいろな出版社の人と話す機会があるが、よく言われるのは「小佐野さんはプロレスが専門ですよねぇ…」。この言葉の中には"PRIDEやK−1などの総合格闘技系だったら書いてもらいたいんだけど…"というニュアンスが含まれている。

 もちろん仕事柄、K−1もPRIDEも見ているから、書こうと思えば書けるが、残念ながら専門家ではない。週刊ゴングの仕事をする場合は、ゴング格闘技を作っている第2編集部の机を使っていて、格闘技のエキスパートの人たちを間近に見ているだけに、そうした人たちへの敬意、自分のプライドを考えると、気軽に格闘技の原稿は書く気になれないのだ。

 前田来場で話題になった4・16リキプロ後楽園ホール大会の前にビッグマウスの代表・上井さんとお茶を飲んだが、上井さんも同じようなことを言っていた。
「そうですよねぇ。3月26日にさいたまスーパーアリーナでやったHERO′Sは格闘技系ということで地上波のTBSも簡単に決まりましたけど、WRESTLE−1の方は、なかなか地上波のテレビを付けるのが難しい。やっぱりプロレスとなると、なかなか話が決まらないんです。本当に悔しい現実ですよ。プロレスが駄目だっていうなら、WRESTLE−1をひとつのブランドにしたいですね」
 と言っていた。

 そう、今やPRIDEやK−1がメジャーで、プロレスはマイナーなのだ。2月のWWEツアーでさいたまスーパーアリーナに行った時も遠目に高山善廣を見た女の子が「あっ、武蔵がいるよ!」と言っていた。これが世間の現実である。

 上井さんが言うように、いい時間帯での地上波放映はプロレス界の悲願。今、私はGAORAスポーツで全日本プロレス中継の解説をやらせてもらっているが…やはり見るのはプロレスが好きな人だけだろう。新規のファンを開拓するには地上波での放映、地上波における露出が一番だ。

 私が子供の頃を考えてみても、誰かが前夜にテレビで見たプロレスの話をすれば、その話題についていこうと翌週には興味がなかった友達もプロレスにチャンネルを合わせる。私は小学校の時から学校に『ゴング』を持って行って友達に見せ、さらにテレビの話もしていたから、クラスの大半がプロレス・ファンになってしまった。こういうことって大事だと思う。

 今、プロレスに世間一般を振り向かせるとしたら、大きな話題になる大会…現状からしたら東京ドーム大会しかない。その意味では5月14日の新日本、7月18日のノアの東京ドーム大会は非常に重要になってくる。

 今は相談役になられた新日本の坂口さんは、
「どんなに苦しくたって新日本は東京ドーム大会をやらなきゃ駄目だよ。もし、ウチができなくなったら"ああ、新日本でもドームは無理なのか"って、プロレス界全体のイメージが下がってしまうからね。どうあれ、ウチが東京ドームを続けていることで、イメージを保っていると思うんだよ。まあ、去年と今年、ノアが東京ドームでやるっていうのも明るい材料だと思う。ノアさんは今、評判がいいようだけど、ノアさんの成功もプロレス界全体にとって起爆剤になるからね」
 と力説する。その意味で、新日本の5・14東京ドームに協力参戦を決めたノアの三沢社長には男気を感じる。

 ハッキリ言って、新日本の5・14東京ドームは話題性、期待度は低いが、今こそ新日本の底力を見せてほしい。「やっぱりプロレスは面白いね!」という声が欲しいのだ。

かつて馬場さんは私にこんなことを言ってくれた。
「いいことを教えてやろうか? プロレスっていうのはな、面白いもんなんや。楽しいもんなんや」。
 そう、プロレスは面白い。楽しい。だから、その面白さと楽しさを改めて世間の人にも知らしめてほしい。もちろん私も傍観者ではなく、プロレスに携わっている一員として、その努力を怠らないつもりだ。

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<第1回>プロレスとの出会い

コラムの第1回ということで、まずは私とプロレスの出会いについて書いてみたいと思う。私と同年代(40代半ば)の人のほとんどが、そうだと思うが、プロレスに触れる最初のきっかけは父親。自分の父親ぐらいの年齢だと、子供の頃に力道山に熱中し、大人になってからも、ついついプロレス中継にチャンネルを合わせる人が多かったのではないか。

 ウチもそんな感じで、金曜夜の8時から4チャンネル(日本テレビ)でプロレスを見て、夜11時になると『ザ・ガードマン』。「早く寝なさい!」と母親に怒られても、眠い目をこすりながら頑張って見ていた記憶がおぼろげながら残っている。当時、住んでいた家を考えると幼稚園の頃だ。

 そうした自然な刷り込み(?)の中で、本格的にプロレスを見るようになったのは小学校3年生…昭和45年(1970年)春の日本プロレス『第12回ワールド・リーグ戦』から。私がプロレス好きと知った大学生の親戚のお兄さんが「こんな本があるんだよ」と月刊ゴングを見せてくれたのがきっかけだ。

 早速、私も本屋へ。月刊ゴング昭和45年6月号が私とゴングの出会いである。当時、月刊ゴング=200円、別冊ゴング=150円。小遣いが月500円の私にとって合計350円の出費は痛かったが、むさぼるようにゴングを読んだ。子供だから脳みそにドンドン、いろんなことが吸収される。アッという間に私のプロレス知識は父親を超えてしまった。

当時のプロレスは大人が見るものであったとは思うが、実にわかりやすい図式だった。いわゆる勧善懲悪。日本人=善、外国人=悪とハッキリしていて、たまに正義の外国人ビル・ロビンソンやミル・マスカラスが登場すると、それはそれで衝撃的だった。

 当時のゴングの記事では外国人レスラーの合言葉は「ワールド・リーグ戦後を狙え!」。馬場が保持するインター王座を本国アメリカに取り戻すため、NWAはワールド・リーグ戦直後で疲れている馬場を狙って強豪を送り込んでくるのだという。また、ボボ・ブラジルなどの黒人選手がエース格として来日する時には魔神党なる黒人レスラーの組織が全力でベルトを狙いにくる。そんな記事を読みながら「これは馬場も猪木も大変なことになるぞ!」と、子供心に心配したものである。

 よくよく考えてみれば、この図式は今の時代も変わらない。これを最も踏襲しているのは、新しいエンターテインメント・プロレスを模索しているハッスルではないかと思う。ハッスル軍=日本プロレス、田モンスター軍=NWAや魔神党と考えればいい。こんなに単純でわかりやすい図式はないのだ。そう、表面的には変化してもプロレスの根本は変わらないのである。


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