<第191回>ハッピー感に包まれた蝶野25周年興行(09.10.14)

 10月12日の両国国技館における蝶野正洋25周年興行は超満員札止めの1万1000人。本当によく入った。

 8月30日の同所における武藤敬司25周年は、全日本のビッグマッチの最後に武藤のスペシャルマッチがあったが、蝶野25周年はオープニングから最後まで蝶野カラー。OBから現役まで、蝶野に縁のあるレスラーが団体の枠に関係なくズラリと集った。結果、様々な時代のプロレスを見ることができたから、会場に足を運んだ人はプロレスを存分に楽しめたと思う。

 第1試合はOBも参戦したバトルロイヤル。小林邦昭、グラン浜田、ドン荒川、藤原喜明が同じリングにいるのは昭和・新日本の風景。タイガー戸口とグレート小鹿がいるのは昭和・全日本の風景…もっと言うなら、昭和40年代の日本プロレスの風景だ。大日本プロレスの歴史を考えと「グレート小鹿vs本間朋晃は実現するのかな?」などというイジワルな気持ちも芽生えた。(これは小鹿登場の前に本間が失格になったため、実現せず)

 プロレスではないが、同じハワイ力士で元横綱の曙と元大関のKONISHIKI(小錦)が、両国国技館という会場で同じリングに立ったのも感慨深いものがあったし、6人タッグでの初代タイガーマスクと長州、ライガーの激突も「オーッ!」と胸をときめかせてくれるものがあった。とにかく感じたのは昭和・新日本で第一線を張った人たちが異常に元気なことだ。やはり若い時に道場で徹底的に鍛えられた人間は強いと改めて感じた。

 メインの蝶野&武藤&小橋vs中西&小島&秋山は三銃士+四天王vs第3世代というテーマもある試合だったが、6選手が構えることなく伸び伸びと持ち味を発揮。やはりトップを取る人間は、オイシイところを持っていく術を知っていると感心させられる。

 全体的にはお祭り的な印象が強かったが、それで良かったと思う。その中で勝負に徹した中邑真輔vs大谷晋二郎の緊張感溢れるIWGP戦も光ったのだ。

 きっとお客さんは、様々の時代のレスラーが、それぞれに持ち味を発揮してくれたことで、難しいことを考えずにプロレスに熱中していた頃にタイムスリップして無邪気になれたとのだ思う。それが大会終了後のハッピー感につながったのではないか。「やっぱりプロレスは理屈抜きに面白い!」という単純なことを再認識させてくれる大会だった。

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<第190回>ここまで来たDDT(09.10.01)

 8月23日に両国国技館初進出を成功させたDDT。その両国後の初のビッグマッチとなったのが9月27日の後楽園ホール大会だった。

 KO−D無差別級王者になった飯伏幸太がMIKAMI相手に初防衛、高木三四郎&ザ・グレート・サスケの大人気ないアラフォー・コンビがKUDO&ヤス・ウラノのKO−Dタッグ選手権に挑戦、男色ディーノは佐藤光留、松永智充、マサ高梨、美月凛音相手にエクストリーム王座防衛、そして浅野グレース恵レフェリーの涙の引退式と、今回も内容(ネタを含む)盛り沢山!

 そして次回、10・25後楽園のメインでは飯伏のベルトに何とヨシヒコが挑むことになった。そう、ヨシヒコはハッキリ言ってダッ○ワ○フである。よく「名レスラーはホウキとでも試合ができる」と言われるが、それをヨシヒコなるギミックを使って実際にやってしまったのがDDT。これまではアイアンマンのベルトを巡る試合が主だったが、これが後楽園のメインに登場となると事件と言ってもいい。

 これが少し前だったらワルふざけが過ぎると思われただろうが、発表された時にお客さんの拒否反応はなし。それは、その直前に行われた飯伏vsMIKAMIがシリアスでハードなタイトルマッチだったことも大きいし、何よりファンとDDTの間に信頼関係が出来上がっている証拠だ。

 常にチケットを買ってくれるお客さんをどう楽しませるかという徹底的な作り込みをしてきたDDTだからこそ、ファンも拒否反応ではなく期待感を持つのだろうし、「飯伏ならヨシヒコ相手に面白い試合を作ってくれるはず」という意識も強いと思う。このカードが決まった瞬間の飯伏の顔は本当に嬉しそうだったのだ。

 ヨシヒコの参謀(というよりも操作役?)のディーノは「今のDDTだったら、ヨシヒコがベルトを獲るのもアリよね!」と自信タップリの発言。団体の看板タイトルが人間ではないモノに移動したら、一体どうなる!? DDTの文化系プロレスの実験とチャレンジは続く。


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<第189回>船木と鈴木の人生勝負再開!(09.09.03)

 プロレスの面白さはリング上の純粋な攻防、勝敗の行方もあるが、最終的には戦っているレスラーの人間性、人間ドラマだと思う。どんなにキャラを作っても、そのファイトに素の人間性、生き方が出てしまう。その"本当の部分"が垣間見えた時、プロレスに深みが増すのだと私は思っている。

 その意味で今、もっとも注目しているのは船木誠勝と鈴木みのるのドラマだ。2人は同学年だが、船木の方が3年先輩。新日本から新生UWF、藤原組、パンクラスと同じ道を歩いてきたが、00年5月26日、ヒクソン・グレイシーに敗れたことで船木が現役を引退。その後も船木は顧問としてパンクラスに残ったものの、鈴木は03年6月の新日本参戦をきっかけに純プロレスに戻り、船木は04年にパンクラスを去った。もはや交わることがないはずの2人だったが、先の8・30両国における武藤敬司25周年記念試合でまさかの再会を果たしたのだ。

 84年〜89年まで全日本担当記者だった私は、残念ながら新日本時代の2人の関係を知らない。私が2人と接するようになったのはパンクラスになってからだ。パンクラス時代の2人は、理由は知らないが口をきかない時期もあった。それでも私の脳裏に焼き付いているのは、前述のヒクソン戦の時にセコンドについていた鈴木、同年12・4武道館の船木引退式で泣きながら船木を肩車していた鈴木の姿である。

 人間、10年以上も行動を共にしていれば、様々なことがあっただろう。ずっと仲良くしていたとしたら、そっちの方が不思議だ。ましてや18歳の子供時代から30歳過ぎの大人までの時間を共有したら、お互いの考え方が違ってくる方が自然なのだ。

 今回のタッグ対決は、船木が平然と、ためらいもなく鈴木の顔面を踏みつけたことで船木に軍配が上がったと私は思っている。きっと船木にとって鈴木は、いつまで経っても後輩だという意識しかないのだと感じた。そして船木は端正な顔に似合わず、実は狂気を持ち合わせていることを改めて知らしめた。

一方の鈴木は戦前、毒舌を浴びせていたが、心の奥底では様々な思いがあったのではないか。何だかんだ言っても船木への熱い思い入れがあったと思う。鈴木のファイトに優しさを感じたのは私だけではあるまい。こんなことを書くと鈴木は怒るかもしれないが、そんな鈴木のファイトを見て「やっぱり、いい奴なんだなあ」と思ったし、鈴木がますます好きになった。

「友達だと思っていたら、友達だと思っていたのは俺だけだったっていう。俺が親友だと思っていたら、向こうは親友と思っていなかったり」とは戦前の鈴木の言葉。それでも人のよさが出てしまった鈴木だが、両国での仕掛けに対して改めてその思いを強くしたはず。となれば、次にリングで相対した時、今度こそ鈴木は非情になれるだろう。

 9・26横浜文化体育館での一騎打ちが早くも決定した。船木と鈴木の人生勝負のゴングが再び鳴る!

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<第188回>TAJIRIがG1に持ち込んだ毒(09.08.19)

 今年のG1は真壁刀義の優勝で幕を閉じた。「あの真壁が…」という感慨はあるものの、私は15日の両国大会だけしか行けなかったので今年のG1を語る資格はない。だが、ひとつ書きたいのはTAJIRIのことだ。

 私が唯一、ナマで観たTAJIRIの公式戦は大森戦。何と1分5秒、毒霧による反則負け。当然、館内は大ブーイングに包まれたが、当のTAJIRIは「やる意味がないでしょ? 意味がわからない。そんな何も賭かっていない試合が楽しいかな? 僕には理解できないね、この新日本のファンのニーズは」と、もはや優勝争いに関係ない消化試合だからと言わんばかりのコメント。これは新日本の公式サイトにもアップされたから、怒りを倍増させたファンも多いことだろう。

 さらにWWEの戦いとG1のリーグ戦の戦い方は違うのではという質問が出ると「何を言ってるんですか!? WWEにもキング・オブ・ザ・リングがありますよ。WWEっていうのは、生き残ること自体がいつもリーグ戦と同じですよ。こんな甘いもんじゃないよ。舐めてもらっちゃ困るよ、世界を。みんな、ホントに世界を舐めちゃダメだよ、知らなさ過ぎだよ」と、上目線発言。TAJIRIの常にWWE経験に基づいた上目線発言に嫌悪感を持っている人も少なくないはずだ。

 最後はマスコミに向かって「このG1にTAJIRIって存在はありでした? なしでした?」。誰も答えないと「誰も何もないんですか? そこまで考えてない? 今後のプロレス界に一石投じるくらいの物凄いターニングポイントになる出来事だったんじゃないかと思うんですけどね。そういうこと考えている人、ひとりもいないの?」と逆ツッコミ。まさにTAJIRIワールド全開だった。

 私自身、大森戦しか見ていないから何も言わなかったが、検証してみれば、初戦ではバーナード相手に勝利、その後の矢野戦、将斗戦、真壁戦では新日本から禁じられていた毒霧で3連続反則負け。IWGP王者の棚橋にはキッチリと勝った上で、この1分5秒で反則負けの大森戦。この流れは完璧にTAJIRIのシナリオ通りだったとしか考えられない。

 今回のTAJIRI参戦を新日本とテレビ朝日は"新日本ストロング・スタイルにハッスルが殴りこんで来る"という形に押し込んだ。そのひとつのキーワードが毒霧だった。毒霧は反則である、ハッスラーはストロング・スタイルに通用しないという枠組みの中で、TAJIRIはTAJIRIなりに俺流を貫いたのである。

 道理にこだわるTAJIRIは、本来は毒霧をレフェリーの目の前で噴射しない。「反則を取られて当然」と思っているからだ。いかにレフェリーの目を盗んで毒霧を使うかがTAJIRIのテクニックであり、どうやって毒霧を使うのかがファン側からの見どころとなっている。今回のG1では、とりあえず実力を見せつけておかなければいけない初戦のバーナード戦と、IWGP王者・棚橋戦ではレフェリーの目を盗んでの毒霧を駆使して勝利しているところがミソ。残りの4試合は「俺より反則している奴がいるのに、これで反則負けなの?」という意味での、これ見よがしの毒霧だった。

『ワールドプロレスリング』で棚橋戦を見たが、ここでは試合前に花束を投げつけて放送席の山崎一夫をキレさせ、試合後には「愛してま〜す!」をやってファンの感情を逆撫でにし、最後は菅林社長に毒霧を噴射。新日本に関わるすべてを敵にしたのだから、大したものだ。その姿は99年1月4日、新日本の東京ドームにひとりで乗り込み、火炎噴射によってわずか5分55秒で佐々木健介に反則負けになった大仁田厚とダブるものがあった。

 TAJIRIはたったひとりで新日本に喧嘩を売り、新日本を否定したのである。TAJIRIが星争い無視でG1を否定したのは事実。IWGP王者の棚橋に勝ったのも事実。こうなると新日本はこのまま黙っているわけにはいかない。毒には中途半端に手を出してはいけない。手を出した以上は解毒する必要があるはずだ。

 果たしてTAJIRIと新日本は今後、どう関わっていくのか? これはイデオロギー闘争なのだ。


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<第187回>幻に終わった三沢光晴企画(09.08.05)

 三沢さんが亡くなったことで、とうとう"ある企画"が実現できないままになってしまった。それは天龍源一郎&三沢光晴対談。

 90年春に天龍さんが全日本を離脱してSWS旗揚げに参加したことで袂を分かつことになった2人だが、元々は仲が良かったし、三沢さんは天龍さんの離脱に至るまでの苦悩を理解していた。だからこそ、この2人に再び接点が生まれることをずっと望んでいたし、いつか再び糸がつながる時が来ると信じていたのだ。

 99年5月、三沢さんが馬場さんのあとを継いで全日本プロレスの社長になった後、2人にかすかな接点が生まれた。2人の共通の知人の結婚式で天龍さん、三沢さん、小橋、小川が同じテーブルになって大酔っ払いしたというのだ。そしてそれを三沢さんは「ある結婚式で、某先輩レスラーに久々に飲まされてヒドイ目に遭った」と公言していたのである。その某レスラーとは、誰が聞いても天龍さんであることは明白だった。

 また池上・本願寺の豆まきでも一緒になることが多く、マスコミの前では距離を取っていた2人ではあったが、裏では会話を交わしていて「やっぱり三沢はいい男だな。お付きの人間に"天龍さんに何か飲物を…"とか、何年離れていても気を遣ってくれて、先輩として立ててくれたよ」と天龍さんは喜んでいたものだ。

 そんな状況の中、2000年の春、日本スポーツ出版社の編集企画室長になっていた私は天龍&三沢対談を目玉とした増刊号を考えていて、思い切って2人に打診してみた。天龍さんは「三沢が嫌じゃなくて、迷惑がかからないんだったらいいよ」との答え。三沢さんは「天龍さんはOKなんだ。それっていつ頃やりたいの? うーん、あと2〜3ヵ月待ってくれたら出来ると思うよ」との答えだった。

 当時、三沢さんは全日本の社長として悩んでいた時期。2〜3ヵ月後とは、全日本から独立後という意味だったのだろう。

 2000年6月、三沢さんは全日本を退団してプロレスリング・ノアを設立。だが、この直後に対談不可能の状況が生まれてしまった。天龍さんが全日本プロレスに復帰したからである。この天龍さんの復帰については、私が仲介役になっているから話は複雑。当時の天龍さんの気持ちは「三沢にも頑張ってほしいけど、故郷の全日本がなくなったら困るというのも俺の本音。どっちも頑張ってくれ、どっちもうまくいってほしい」というものだった。

 相容れないノアと全日本。その障害がなくなったのは03年6月。天龍さんが全日本との3年契約を終えてフリーになったのである。私は2人の対談を諦めていなかった。週刊ゴングの04年度新年号が編集企画室プロデュース号になったことで、私はこれを初夢対談として目玉にしようと思ったのである。年末の横浜文化体育館で三沢さんに打診すると「小佐野クン、遅いよ! そういうのはもっと早く言ってくれなきゃ。スケジュールが取れるかなあ」との答え。結局、スケジュールの都合はつかなかったものの、三沢さんの答えがNOでなかったことに先への希望が持てた。

 運命とは不思議なもので、05年1月から天龍さんは遂にノアに登場。2人の糸はつながったが、リング上では敵対関係だけに、もはや対談は無理になってしまった。だが、対談より何より、2人がリング上で直接会話ができるのが一番なので、素直に嬉しかった。

 天龍さんがノアに上がったのは結局05年いっぱい。ということは、もう敵味方関係ないということになる。まったく白紙の状態で会うことは可能だろう。今の私はフリーの立場で自分の媒体を持っていないが、何とかいいタイミングで『Gスピリッツ』において対談を実現できないものかと考えていた。

 だが、遂にそのタイミングは来なかった。天龍源一郎&三沢光晴対談は、私の永遠の夢になった――。

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<第186回>三沢光晴オリジナル技誕生秘話PART3(09.7.22)

受け身の技術が極限にまで達した"四天王プロレス"の中で三沢光晴が編み出した究極の必殺技がエメラルド・フロウジョンだ。初公開は98年1月26日、大阪府立体育会館における秋山準戦だった。

当初の形は相手をツームストン・ドライバーのように真っ逆さまに担ぎ上げ、左手で相手の胴、右手で相手の首を固定して叩きつけるものだったが、手を持ち替える動作に時間がかかるため、ボディスラム式に抱え上げて、そのまま叩きつける形に改良された。この技はバリエーションが多く、首を固定せずに叩きつけるもの、ブレーンバスターの体勢から叩きつけるもの、天山のTTDのように右腕を相手の股に差し込んで叩きつけるものなどがある。三沢のシンボル・カラーであるグリーンの宝石エメラルドと滝の流れをイメージして命名された。

「これはオクラホマ・スタンピードの応用だね。タイガー・ドライバーだと仕掛けにくい体型っていうのがあるんで、それで考え出したんだよ。重いとか大きいっていうのは関係ないんだけど、ダブルアームの形に持ち込めない体型の奴っているじゃない。だから担ぎ上げさえすれば仕掛けられるのがエメラルド・フロウジョンの利点だね。秋山に初めてやった時は、持ち方が逆だったの。あの方が垂直に落ちるけど、体重移動が難しくて時間がかかるから、今の形になったんだけどね。まあ、相手もこの体勢になるとわかるから、首を中にグッと入れようとするじゃん。だから、どんな技でも決まりにくくなるよね。でも改良しやすいっていうか、体勢的にブレーンバスターからも入れるし、相手の受け身の技術によって角度も変えられるし、手を持ち替えないでボディスラムからも入れるし、臨機応変が利く技だよね」(三沢)


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<第185回>三沢光晴オリジナル技誕生秘話PART2(09.7.8)

 85年10月にヘビー級転向を宣言した三沢タイガーは87年から『猛虎七番勝負』を敢行。その最終戦となる鶴田戦を前にした88年2月に道場で完成させたのがタイガー・ドライバーだ。ちなみに私は東京スポーツの柴田惣一記者と一緒にタイガー・ドライバー開発中の三沢を取材している。実験台は小橋で、当初の形はリバース・フルネルソンの形で相手を吊り上げるのではなく、相手を両腕ごとホールドして逆さに吊り上げ、頭から落下させると同時に自らもジャンプ、宙に浮いている間に受け身が取れないように相手の両手首を掴み、叩きつけた後に相手の両足に自らの両足をフックして完全に動けなくしてフォールするというもの。だが、これだと力が必要だし、大きい相手だとホールドできないということで実際に使用する時にはリバース・フルネルソン式に改良した。

初公開は同年3月7日、水沢市民体育館における谷津嘉章&仲野信市と組んでの天龍&原&川田戦で川田に決めた。91型はさらに進化させた脳天から叩きつけるもの。91年1月26日、東京・後楽園ホールにおいて田上明相手に初公開。当初は垂直落下式タイガー・ドライバーと呼ばれた。

「頭から落とす技が増えてきて…何をしようかなと考えた時に、あんまりやらなくなった技からの入り方にしないと客は間違えるでしょ、"ああ、あの技やるのかな"って。その頃、ダブルアーム(スープレックス)使わなくなってたから、ああいう体勢から何かねぇのかなって。あれはヘビー級でも通用するというか、相手が重いほどダメージ大きくなるからね。まあ、テコの原理みたいなもんなんだよ。あんまり力いらない、コツさえ掴めば。相手も防御を覚えてきたから91型(シットダウン式ではなく、自らの両膝をキャンバスに着く形で相手を垂直に叩きつける型)を作ったの。タマちゃん(田上のこと)には悪いけどね、ちょっと試させてもらった(苦笑)」(三沢)

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<第184回>三沢光晴オリジナル技誕生秘話PART1(09.6.24)

 このプロレスコラムは、今回から三沢光晴さんを偲ぶものをしばらく書いていきたいと思う。ただし、ここで私の思い出話を書いたとしても、それは極めて個人的なものになってしまうので、あくまでもマスコミとして取材したオリジナル技を本人の証言を盛り込んで書いていこうと思う。そのスタートは2代目タイガーマスクになった時代の必殺技だ。

初代の佐山聡のフィニッシュ技は相手の両腕をダブル・チキンウイングに捉えてのタイガー・スープレックスだった。三沢タイガーの難しいところは初代のイメージも残しつつ、オリジナルなキャラを確立すること。そこで1984年8月26日、東京・田園コロシアムにおいて2代目タイガーマスクとしてデビューした三沢は、初代タイガーの必殺技タイガー・スープレックスからダブル・チキンウイングのロックの仕方にアレンジを加えた新スープレックスを披露してラ・フィエラ相手に初陣を飾った。84年ということで、タイガー・スープレックス84と命名された。

翌85年8月31日には東京・両国国技館で小林邦昭相手に第2のオリジナル技タイガー・スープレックス85を初公開、第17代NWA認定インターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者になった。この技は相手の上半身と首をクラッチして投げる新スープレックスだった。以下は三沢の証言だ。

「初代にない技を開発しろって言われて…誰かが考えてくれりゃあ楽だけどさ、誰も考えてくれないもんね、そんなもん(苦笑)。初代の技はチキンウイングで相手の両腕をロックしてから相手の背中に自分の掌を押しつけて投げるんだけど、84型は自分の両手を握って投げるの。脇を締めなきゃいけないから、難しさはあるけど、俺はこっちの方が投げやすかったね。85型は相手の胸から上をクラッチして投げるんだけど、俺が意外と腕が長いっていう利点があるからできるんでね、普通の人はできないんじゃない?」(三沢)


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<第183回>何年経っても…(09.6.10)

 毎年6月になると、私の心はプロレスに携わる者としての原点に戻る。1987年6月4日、名古屋のシャンピアホテルで天龍源一郎と阿修羅・原が握手、天龍革命=レボリューションがスタートした。あの革命記念日から22年の時が経過したというわけだ。

 プロレスは答えがないものと言われるが、天龍と阿修羅の龍原砲は「プロレスとはこういうものなんだ!」というひとつの答えを突きつけてくれた。それは「どんな会場でも常に目いっぱいのファイトをする」という当たり前のものだったが、そうするためには相手のナマの感情を引き出して本気で向ってくるまでやらなければならないし、それによって自分の体を痛めつけることになる。相手を徹底的に攻め込んだ上で相手の持ち味を引き出し、相手が反撃に転じたら真っ向から受け止めるという実に高度で深くて誤魔化しのないプロレスがあった。

「真心込めて、憎しみ込めてやれば大丈夫ですよ。だって、客はそこを観に来るんだからさ。簡単なことですよ。妙に巧く見せようとか、手心を加えようとか、邪心が入ったらダメですよ。もう、やる時は徹底的にやる。そうすると、客は"この野郎!"って思うだろうし、やられている相手も技を超えたものを出してくるんですよ。それによって何かが生まれるんですよね。それに尽きると思うよ」とは、昨年11月にGスピリッツ第10号用にインタビューした時の天龍の言葉。

 いわゆる技術、そしてナマの感情が激しく交錯した戦いこそ本当のプロレスだと私は龍原砲を間近で取材して確信を持った。それは今も揺らぐことはない。あの衝撃、あの感動が今でも私が仕事をしていく上でのエネルギーになっている。

 よく「ハッスルに出ている天龍さんをどう思うか?」と聞かれるが、どんなリングに立とうが、何年経とうが私の天龍観はまったく変わらない。堂々とハッスルのリングに上がっているのも自分に揺るぎない自信があるからだろうし、昔とは違ったプロレスの要素を今の年齢になったからこそ楽しみ、提供できるのだと思う。ただし、いつだったかの後楽園でRGと対戦した時に客席から失笑が漏れた瞬間にRGの顔面に容赦ないグーパンチを叩き込んだことが印象に残っている。それが天龍源一郎なのだ。

 来年2月に天龍は還暦を迎える。それを37歳当時のファイトをしろと言っても無理な話。ちなみに天龍革命スタート時、25歳だった私も47歳。あと2ヵ月で48歳になる。そう考えると随分長い年月取材してきたわけだが、それによって若い時にはなかった円熟味、味を感じる取ることができるし、自分が年を重ねれば、その年齢の時の天龍の心情もよりわかるような気がする。この感覚は、ずっと取材をしてきた人間の特権だと私は思う。何年経っても天龍源一郎は天龍源一郎。そして天龍革命というムーブメントが風化することはない。

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<第182回>伝説の人と遭遇(09.5.27)

 5月17日の東京・後楽園ホールにおける全日本プロレス5月シリーズ開幕戦で、私にとっては『伝説の人』とお会いすることができた。

 試合前、流智美さんから「小佐野さんちょっと…」と声をかけられた。その隣には初老の紳士が。その人こそ、ヒロ・マツダと並んでフリーとしてアメリカで活躍した日本人レスラーの草分け、マティ鈴木だった。

 マティ鈴木は馬場さんと同じ1938年生まれ。ボディビルで体を鍛えて59年に日本プロレスに入門したが、66年に退団して吉原功氏、兄貴分のヒロ・マツダと共に国際プロレス設立に参加。67年には日本を飛び出して、ノースカロライナ、フロリダ、オクラホマ、オレゴンで活躍した選手だ。

 73年に全日本プロレスに助っ人参戦したものの、75年にはアメリカにUターンし、78年の引退までオレゴンでファイトしていた。全日本にいた頃はジャンボ鶴田を可愛がっていて、鶴田さんから鈴木さんの話は結構、聞かされていた。今思うと、ジャンボが引退後にポートランドに移住したのも、そこに鈴木さんがいたからではないかと思う。現在も鶴田さんのご家族はポートランドに住んでいて、鈴木さんと交流があるとのことだ。

 私にとって鈴木さんは雑誌のグラビアでしか知らない存在。今のプロレス・マスコミで鈴木さんを取材しているのは菊地孝さん、門馬忠雄さん、竹内宏介さんの3人だけではないかと思う。

 今回はチャンスがなかったが、ぜひGスピリッツで力道山道場の話、初期の国際の話、60年代後半〜70年代のカロライナやオレゴンなどのアメリカ・マットの事情についてじっくりインタビューさせてもらおうと思っている。現在はオレゴン州ポートランドで実業家として成功している鈴木さんは年に1回は日本に戻ってくるというから、必ずチャンスはあるだろう。

 まだまだ掘り起こさなければならないことは沢山ある。Gスピリッツにはやるべきことが無限にあるのだ。


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<第181回>中西よ、野人たれ!(09.5.13)

 今年のゴールデンウィークで残念だったことは5・6後楽園ホールでの中西学のIWGP初戴冠を目撃できなかったことだ。実はその日、私の体調は最悪。これは身から出た錆…5月4日にハワイ旅行から帰国、その夜にサムライTV『S−ARENA』に出演、5日は午前から留守中の出来事をチェックし、夕方から新日本・後楽園、そこからまたまた『S−ARENA』出演というスケジュールで、番組収録後に寝不足と疲れから滅多にない頭痛に襲われ、6日の昼からの新日本をパスせざるを得なくなってしまったのだ。

 何とか夕方からのノア日本武道館には行ったが、そこで中西の快挙を知らされて「しまった!」と思ってもすべては後の祭りだったというわけ。

 あと出しジャンケンのようで嫌だが、私が「中西は行ける!」と思ったのは昨年の8月。

4月に武藤が中邑からIWGPを奪ったことで燃えたのが中西だった。挑戦の名乗りを上げると、後藤、真壁を撃破して挑戦権をモノにし、7・21札幌で武藤に挑戦。敗れたものの、野人パワーを爆発させて、あの武藤に「何で今まで中西がIWGPを獲っていないのか不思議だよな」と言わせた。

 そして8月のG1。例のごとく(?)中西は失速した。開幕戦で大谷晋二郎に敗れ、2戦目では小島聡に敗れて2連敗。3日目の8・13後楽園で棚橋を大☆中西ジャーマンで何とか下して初勝利を挙げたが、この日の試合後のコメントで私は「中西は行ける!」と思ったのだ。

「俺は俺の闘いを絶対に忘れへん。今まで何回も自分を見失ってきたけど、中西学として闘う。そうしたら何か見えてくるはずや。何か見るために、何か掴むためにやっとるんやから」が、そのコメントだった。

 それまでの私の中西に対する印象は強い時は滅法強いが、ちょっと歯車が狂うとガタガタとどこまでも落ちてしまう。気分にムラッ気がありすぎる、集中力が持続しないというもの。それだけに、このコメントを聞いた時に「変わろうとしている!」と強く感じたのだ。肉体的、実力的には申し分ないのだから、これに精神が追いつけば鬼に金棒である。

 今はレスラーが小型化しているから、みんな体を補うために巧くなっている。前王者の棚橋にしても試合の組み立ては抜群だ。だが、巧いレスラーを見ていると、今度は理屈が通用しない規格外のお化けを見たいと思うようになってしまうのが人の心というもの。中西は文字通り規格外。42歳であの体、あのパワーというのは言い方は悪いがお化けのようなもの。まさに人を越えた野人だ。今、新日本において単純に"強さの象徴"を挙げるとなると、中西しかいないだろう。

 正直、そのファイト・スタイルからすると長期政権は難しい気がするが、中西には巧さ、組み立て、理屈を超越した奔放なファイトで突き進んでほしい。閉塞した今の時代、中西の豪快なファイトが必要な気がする。そう、いつまで経っても、時に人をどよめかせ、時に人を笑わせ、そして誰をもスカッとさせる野人であってほしい。


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