粋な計らい

 今日15日は全日本の7月シリーズの開幕戦。ということは、全日本のレスラーは橋本さんのお通夜に出席できないということになる。つくづく辛い仕事だ。
 そんな状況で武藤が粋な計らいをしてくれた。全試合終了後に追悼の10ゴングを鳴らすことは決定済みだったが、メイン終了後、武藤が小島、健介、嵐を指名して急遽、武藤&嵐組と小島&健介組の追悼試合10分1本勝負が行なわれたのだ。レスラーはレスラーらしく、リング上のファイトで故人への哀悼を表そうという武藤の意思である。小島、健介はもちろん、嵐だって橋本さんの三冠王座に挑戦した男。武藤は、ちゃんと縁のある人間をピックアップしたわけだ。小島は試合のスタートから泣いていた。
 橋本さんを偲ぶようにケサ斬りチョップを連発する選手たち。嵐の橋本さんを彷彿とさせるニールキックに会場がどよめいた。武藤は、橋本さんが小川との一騎打ち第2R用に開発した燕返し、さらには三角絞めを繰り出した。館内はいつしか橋本コールに包まれ、試合後の10ゴングの時には客席のあちこちから、すすり泣きの声が…。フィナーレはもちろん橋本さんのテーマ曲『爆勝宣言』。
 どういう形でもいいから橋本真也というレスラーをファンの胸に焼き付けたいという武藤の気持ちが痛いほど伝わってきた後楽園。今日はGORA中継の解説にためにお通夜に行けず、明日も追悼増刊号に続く週刊ゴング用の橋本さんの企画ページの締め切りの都合上、葬儀に出席できない私にとっても、この粋な計らいは嬉しかった。ありがとう、武藤敬司。
 

川田は…デンジャラスK!

今週の週刊ゴングをご覧になった方も多いだろうが、巻頭カラー特集は三沢と川田の26年の運命。となると、私の出番である。こうした時にキャリアは大事な引き出し…ひとつの財産になる。などと偉そうなことを書いても、たまたま2人と長い付き合いがあったってことだけなんだが。
 川田の取材で箱根に行き、取材が終わったらもちろん宴会だ。川田は「三沢さんは酒が飲めなかった」と言っていたが、当の川田はいつから飲めるようになったのだろう? 少なくとも天龍同盟時代は飲めないクチだった。いつも宴会の隅で存在感を消していたし、神経質で移動バスの中では眠れない川田は、連日の宴会漬けに「寝不足だあー!」といつも嘆いていたものだ。気分が悪くなって、自分で救急車を呼んだという伝説もあるしね。もっとも本人は「北尾は救急車で運ばれたんでしょ? 俺は自分で呼んで、人に迷惑かけなかったんだから」と今もヘンな自慢をしている。
 SWS騒動から全日本の会場に顔を出さなくなってしばらくしてから東京・御徒町の超世代軍の溜り場(というよりは三沢と川田の溜り場)になっているスナックに顔を出すと、すっかり“天龍になっている”三沢と川田がいて笑えた。三沢は人に無理強いしなかったが、川田は若手だった浅子や雅央に「ナニ? 飲めない? バカヤロウ! 俺なんか若い頃はなあ(この時も若かったが…)、天龍さんに飲まされて救急車で病院に運ばれたんだぞ!」とイッキを強要していたものだ。
 思えば、川田と飲むのは超世代軍時代以来か!? 聖鬼軍になってからはパッタリと例のスナックには顔を出さなくなってしまっていたのだ。実に12~13年ぶりに飲んだ川田は超世代軍時代と何も変わっていなかった。何が変わっていなかったって…飲むスタミナ。結局、お開きになったのは午前4時半過ぎ。これって40代になった人間の飲み方じゃないよ。それでも4時間後にはスッキリした顔で「オハヨー!」。キミはやっぱりデンジャラスKだ!

橋本真也追悼号

 週刊ゴングでは来週の火曜日の19日に橋本真也追悼号を緊急発売することを決定した。私も昨日の昼に協力を要請された。18日が休日になるので、作業の締め切りは明日の朝まで。事実上、1日で本を作るのだから、これはハードだ。
 商業誌である以上、これは商売になってしまう。だが、偉大な功績を残したレスラーを後世に伝えるのは我々の義務。その心意気がなければできない因果な仕事である。
 思えば99年1月に週刊ゴング編集長から編集企画室長になった時の最初の仕事がジャイアント馬場さんの追悼号だった。その1年後にはジャンボ鶴田さんの追悼号を作った。そして2003年3月には冬木さんの追悼号を作っている。冬木さんの追悼号の場合には、亡くなる数日前に「意識があるのは今日までだろうから…」と連絡を受けて病院に駆けつけ、その帰りに“何としても冬木さんのメモリアルを残さなければならない。これは俺にしかできない役目だ”と思って制作を決意し、すぐに根回したもの。最後の入稿が葬儀という形で緊急発売した。悲しい役目だったが、この本を出せたのは私の誇りでもある。
 橋本さんの追悼号も精一杯作らせてもらう。これは使命なのだから。

ようやく実感が…

 昨日の午後、橋本選手の突然の訃報。夜9時からの『NES侍』は追悼番組的な内容になり、GKこと週刊ゴングの金沢プロデューサーと出演した。橋本選手と21年来の付き合いがあるGKは「ふざけているか、喧嘩しているかどっちかだった…」と言っていたが、番組の最後には我慢できずに涙をこぼしていた…。
 番組終了後、GKと共に週刊ゴング編集部へ。吉川編集長を交えて情報収集と今後への対応、次号の構成をどうするか、さらには追悼増刊号をどう進行させるかを話し合った。一時代を築いた橋本真也というレスラーをどう後世に伝えるか…これは我々の義務である。
 今朝、各局のワイドショーで橋本選手の死が大々的に取り上げられていた。橋本真也、急逝…これは現実なのだ。

橋本真也、急逝

 午後2時過ぎ、英会話スクールを終えて携帯電話をチェックすると、数多くの着信が。そして次々にかかってくる電話…。すべて橋本真也の急逝に関するものだった。
 えっ? 橋本が!? こうしてダイアリーを打ち込んでいる今も、何か信じられないし、情報が交錯して現時点では詳しいことはわかっていない。こういう状況になると媒体を持たない私は何もできない。ただ人からの情報を待つ受け身の状態。何か…頭が真っ白で整理がつかないというのが正直なところだ。
 私は橋本選手とはほとんど接点がなかった。彼がデビューした昭和59年当時、私はバリバリの全日本担当。しかも長州らジャパン・プロレス勢が全日本マットに上がるという状況だったから、そちらの取材に精一杯で、新日本マットに目を向ける余裕がなかった。だからヤングライオン時代の橋本選手の記憶はまったくないのである。
 彼が私の取材対象になったのは平成5年に天龍さんを狙ってWARのリングに上がるようになってから。その印象は一途で純真…別の表現をすると、、こうだと思うと周りが見えなくなって一直線な人というものだった。
 もうハッキリとは憶えていないが、ゼロワンを立ちあげたばかりの2000年春、天龍さんと橋本選手の対決の気運が盛り上がり、天龍さんの依頼を受けて、橋本選手に真意を聞きに行ったことがある。確か場所はZEEP TOKYOで、マスコミをシャットアウトしていたが「取材じゃないから」と面会を申し出ると、快く控室に迎え入れてくれて「お久しぶりですね…」と笑顔で迎えてくれた。当時の橋本選手はノアとの戦いに目が向いていて天龍戦はお流れになってしまったが、じっくり話ができたのはその時が最後だったと思う。
 あの伝説の99年1・4東京ドームにおける小川戦(事実上の失神KO負け)から半年後の6・8日本武道館。天龍戦でカムバックした橋本の、
「俺も将来、あんなオッサンになってやろうと思います!」
 という言葉が忘れられない。だが、オッサンになる前に旅立ってしまった。40歳とはあまりにも若すぎる。今はただ、安らかにとしか言葉が出ない。合掌。
 

ケンゾー、WWE解雇

 日本ツアーが終わったと同時にWWEはリストラの嵐。日本ツアーに参加してマット・モーガンなどは、帰国してすぐに電話で解雇を言い渡されたというから、本当にシビアだ。
 そして日本人選手でもリストラ組が出てしまった。今年の2月末に内臓疾患のために長期療養し、ようやくカムバックが決まっていたケンゾーである。ケンゾーはスマックダウンからRAWへの移籍が決まっていたが、RAW移籍の通達の2日後に今度はリストラ通告だったというからたまらない。WWEのギャラは高いが、いつリストラされるかわからない。契約内容にもよるが、リストラ通告と同時に働くリングがなくなってしまうというのが現実なのだ。
 私がケンゾーと喋るようになったのはWJ時代に一緒にサムライTVに出演してから。私が週刊ゴングの編集長を降りた99年の4月に新日本に入団し、00年1月4日のデビューだったから、それまで個人的な接点は生まれなかった。で、いざ喋ってみるとケンゾーはユニークな感性の持ち主だった。すでにWJの経営悪化がマスコミの間では囁かれていた時期だったが、
「だいたいウチはインディーなんだから。それをメジャーと勘違いしてるから駄目なんですよ」
 と平気で言っていた。また、
「俺、大仁田さんとデスマッチやってもいいなと思ってたんですけど、この間、冬木選手の追悼試合の橋本さんと金村さんの電流爆破マッチをビデオで観て、これには勝てないなと思いましたよ。だって俺、感動して涙が出ましたから」
 などとも言っていた。その感覚が、新日本のエリート出身とは思えず、興味をそそられた。
 今年1月にゴングでアメリカン・レスリング・ゴングという増刊号を作る際、ケンゾーにWWEイラク遠征の日記と写真をお願いしたが、日記はほとんどリライトせずに使える、味のある文章だったし、写真のセンスもバッチリ。「さすが東海テレビ出身!」と思ったものだ。
 何か人にはないセンスと才能が感じられるケンゾーだけに、ここで日本に帰ってきたらもったいないと思う。米インディーでは生活も辛いだろうが、TNAという選択肢もあるだろうし、違う味があって、なおかつスケールの大きな国際派のレスラーになってくれることを願うばかりだ。

坂口親子のアメリカ旅を観て…

 6月25日深夜に放映されたテレビ朝日『僕の中のリング 坂口征二・坂口憲二 アメリカ・プロレスの旅』を、ようやくビデオで観た。ハーリー・レイス、スティーブ・カーン、カール・ゴッチ、ドリー・ファンク・ジュニア…懐かしかったなあ。宮本和志の暮らしが見られたのもよかった。
「プロレスはタフでいて安全でなければならない」(ハーリー・レイス)「倒れても立ち上がるタフなハートが必要だ」(レイスの門下生)「声を出せ」(カーン)のどの言葉もプロレスの本質に触れるものだったと思うし、未だフロリダのインディーでファイトしているドリーの「好きだからプロレスをやっている」という言葉も心に響くものだった。あくまでもストイックなゴッチさんは81歳になってもゴッチさん。その元気な姿を見ることができただけでも、この番組を観た甲斐があった。
 この番組を観て思い出したのは1981年のアメリカ旅。本場のアメリカ・マットを知りたくて、ゴングのバイトで貯めた総額80万円でアメリカを3週間旅した時のことだ。グレイハンウンド・バスの1ヵ月パスとデルタ・エアラインのラウンズ・チケットを購入して、あとはすべてキャッシュ。当時19歳だった私はクレジット・カードを持っていなかったのである。
 
 ルイジアナ州バートンルージ→フロリダ州マイアミ→フロリダ州ウェストパームビーチ→ミズーリ州セントルイス(キール・オーデトリアム&スタジオのTVマッチ)→ジョージア州アトランタ→フロリダ州タンパ→テキサス州サンアントニオ→テキサス州ヒューストン→テキサス州ダラス→テネシー州ナッシュビル→ケンタッキー州ルイビル→ノースカロライナ州スパルタンバーグ→バージニア州リッチモンド→最後はニューヨークMSGと、15試合もよく回れたものだと思う。
 当時はテリトリーが確立されていて、それぞれに特色があった。ルイジアナのMSWAはレスリング主体で、ボブ・ループがトップを取っていた。フロリダ、ミズーリ、ジョージア、カロライナは当時のNWA黄金テリトリーでトップ選手が集結。テキサスのサンアントニオ&ヒューストンのSWCはNWAとAWAの両方の選手がファイトするオイシイ場所でニックボックウインクルvsミル・マスカラスのAWA世界戦を観られたのはラッキーだった。ダラスはエリック王国、テネシーはパンチ&キックの喧嘩ファイトが出来る選手がトップを取るテリトリー。MSGではカネックのアメリカ・デビュー戦、キラー・カーンvsアンドレ・ザ・ジャイアントの遺恨マッチを観ることができた。
 フロリダではヒールのテリーがサンアントニオではベビー、ジョージアではヒールのブロディがダラスではベビーという地区によっての選手のキャラ分けも新鮮だったことを記憶している。
 このアメリカ旅で私は「プロレスはいろいろあるんだなあ」と改めて実感した。そして、今回の坂口親子の旅でも、登場する人たちがそれぞれ違うプロレス哲学を喋りながらも、それぞれにプロレスに情熱を持っていることがうまく伝わっていたと思う。
 改めて馬場さんの言葉を思い出す。
「そういうものをすべて含んだものがプロレスなんだ」。

リッキーに感激!

 ちょっと話題は古くなってしまうが、先日のWWEスーパーショーで個人的に嬉しかったのは、エージェントとして来日したリッキー・スティムボートの勇姿を見られたこと。そう、あの“南海の黒豹”だ。
 初日はエディ・ゲレロに挑発されて、ちょこっとリングに上がっただけだったが、2日目に今度はJBLに挑発されて、遂にチョップ爆発! カンフー・ポーズもバッチリ決めてくれた。この時、私の頭の中には、かつてのテーマ曲『ライディーン』がこだましていたのである。
 エディもJBLも日本マット事情通だけに、リッキーがかつてスーパーアイドルとして日本で人気を博していたことを知っていたのだろう。何とも粋な演出をしてくれたと思う。
 なぜ、私がリッキーにイレ込んでいるかというと…彼が初来日した1980年当時、アメリカン・プロレスに夢中で、リッキーはまさしく“まだ見ぬ強豪”だった。この年の春からゴングでアルバイトしていた私は、リッキーが全日本の最強タッグに来日するや、密着取材。
 リッキーは日本人とのハーフ(母親が京都出身)のためか、陽気なアメリカ人といった感じではなく、ちょっとシャイな人。日本の血が入っているとはいっても、日本語はまったく話せなかったが、私の今よりもいい加減なブロークン・イングリッシュに付き合ってくれ、パートナーのジム・ブランゼル(元AWA世界タッグ王者=この人も気さくでいい人だった!)と一緒に取材と観光を兼ねて東京タワーに行ったりしたものだ。
 あれから25年経ったリッキーは、自慢だった黒髪はグレーに、しかも薄くなって(人のことは言えないが…)、あのビルドアップされた体も太くなっていたが、そのアクションは健在! 52歳になった今も、私にとってリッキー・スティムボートは、あのリッキー・スティムボートのままなのだ。
 

今回のWWE日本公演は成功か?失敗か?

 7月1日~2日のさいたまスーパーアリーナにおける『WWE SUPERSHOW』の取材に追われてダイアリーを更新できずにいたが、このビッグイベントに触れないわけにはいかないだろう。
 まず客入りだが、これまでのプラチナ・チケット状態がウソのように初日=9500人、2日目=12500人の寂しい入り。これにはいくつかの要因がある。まずフジテレビが春に放映を打ち切って地上波がなくなったため一般の人に浸透しなかったこと。4月に誕生した若き2大王者バティスタ、シーナの知名度がまだ高くないこと。本国アメリカでトレードの真っ最中ということでストーリーラインがしっかりしていないこと…などなど、考えると次から次へと出てくる。
 ただ、今回の集客だけを見て失敗だったと判断するのは早計だ。それは、さいたまスーパーアリーナという器で2日連続で興行が打てる日本の団体がどれだけあるのかを考えれば、WWEのパワーが分かろうというもの。招待券も出ただろうが、あの盛り上がりを見ると、純粋にWWEが好きな人が集まったと好意的に解釈していいと思う。
 内容的にも濃かったし、WWEの底力、緻密な戦略を見せつけられた。今は本当に過渡期…新時代を確立するための“生みの苦しみ”の時期だと思う。そのあたりについては水曜日更新のプロレスコラムでジックリと書かせてもらいます。

バリ島のエネルギー

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 昨日の続きです。完璧にリゾート地化されたヌサドゥア地区だけでは満足できなくなったウチら夫婦は3日目の夕方からバリ州都のデンパサールへ。ちょうど今は年に1度(6月~7月)のアート・フェスティバルの時期。毎晩のように伝統芸能などのイベントをやっていると聞いて、いざ出陣。
 ホテルの人に聞いたところ、帰りにタクシーを拾うのは困難ということでタクシーを4時間チャーター。料金はツアー会社手配の3分1の値段だからOKだ。
 さて、ナマのバリの街のエネルギーは凄かった。車間距離もお構いなしに車とバイクがひしめいている。バイクは平気で4人乗りして、ほとんど距離を取っていない車の間をスイスイ。免許が取れるのは16歳からだというが、現地係員さんの息子は小学校5年生なのに「免許を取るための練習」と称して、今から乗り回しているという。なんでも、現地の人が最初に欲しくなるのがバイクで、次がテレビ。クーラーは、暑いのに慣れているからいらないし、洗濯機も手洗いするからいらないという。
 確かに公共交通機関が発達していない島では車、バイクは必需品。車は高いから必然的にバイク利用者が多くなる。人気は日本製で、ホンダと言えばバイクの意味になるとか…。小学校5年生から乗っているから、平気で車の間を縫って運転できるのだろう。
 ただ、彼らの運転は歩行者にも高度なテクニックを要求するから困りもの。とにかく道を渡ることができない。恐らく3日もいたら、確実に轢かれていると思う。
 ようやく辿り着いたアート・フェスティバルの会場アート・センターは、どこから集まったんだろうと思ってしまうほどの人、人、人。ちょうど土曜の夜だったこともあって、大人から子供までゴッタがえしていた。そうした人の群れをかき分けて、屋台でナシ・チャンプルを汗だくになって胃袋に詰めてイベント会場へ。正直な話、群集のエネルギーに圧倒されて、何を観たのか憶えていない。
 物の値段も言い値。行き慣れたマレーシアの物価は分かるが、バリでは基準となる値段がさっぱり分からない。とりあえず値切って、自分で納得できる値段だったら買うしかない。タクシーにしても、メーター・タクシーもあるにはあるが、ほとんどが値段交渉。値段はあってないようなものというのはアジアの鉄則だよね。
 ヌサドゥア地区の静寂とデンパサールの喧騒…このギャップは楽しめたが、アジア旅の達人になるには相当なエネルギーが必要だと、つくづく思い知らされた。次に行く機会があれば、ウブド地区に行ってみたいと思うが…ウチら夫婦には、田舎でのんびりしていて、人も少ないマレーシアのランカウイ島がお似合いかな?