馬場さんの十七回忌に思ったこと

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去年の12月16日以来のダイアリー更新となります。昨日1月31日にはジャイアント馬場さんの十七回忌でした。1999年1月31日午後4時4分、馬場さんがお亡くなりになってから16年…後楽園ホールで追善興行が開催されたが、その前の午後4時からは東京・永田町のザ・キャピトルホテル東急において『十七回忌 ジャイアント馬場を偲ぶ会』が催された。
そこで私は司会進行役の大役を務めさせていただいた。本来ならば木原文人リングアナの役目だが、後楽園の試合準備のために偲ぶ会には出席できず、馬場元子さんからご指名いただいたのだ。1984年5月に月刊誌だったゴングが週刊化される時に初代全日本プロレス担当記者になって以降、馬場さんにはお世話になってきた。取材拒否2回、取材拒否警告1回を受けるという、馬場さん夫妻にとっては厄介な記者だったとは思うが、それでも本当に可愛がっていただいた。
「どんな記事を書いても構わんが、レスラーの人間性を傷つけるようなことは書くなよ」「お前にいいことを教えてやる。プロレスはな、面白いものなんや、楽しいものなんや」…取材を通して、あるいはキャピトル東急の『オリガミ』でご馳走になりながら、いろいろなことを馬場さんに教えていただいた。
今の私は社会的な肩書があるわけでもないのに、元子さんは「馬場さんはあななたの声が好きだったから、司会をやってもらえたら喜ぶと思うの」と言ってくださった。馬場さんと初めてお会いした時に22歳の若造だった私も53歳になった。この年になり、十七回忌という節目でようやく少しは馬場さんに恩返しができたのかなと思う。

ザ・グレート・カブキのプロレス人生50年

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昨日11月1日は新宿FACEで『カブキ祭りだョ!全員酒ぅ豪!』が催された。これはカブキさんの格闘技=プロレス人生50年と東京・飯田橋で経営する『Big Daddy酒場かぶき うぃず ふぁみりぃ』の16周年を兼ねた記念イベント。カブキさんとその家族、お店を愛する人たちが450人も集まって、飲み放題ということで熱気ムンムン。私は自伝出版記念のトークコーナー(ツイート、ブログでの公開禁止!)を担当させてもらった。
10月29日に辰巳出版から発売になった自伝では、私はカブキさんの記憶を呼び覚ますお手伝いをさせてもらった。人間、半世紀もの長い時間の間にはいろいろなことがある。「今、思い出してもムカッとすることもあったよ」とカブキさんは苦笑していたが、この自伝も決して自身を美化したり、綺麗事で済ませていないところに意味があるのだと思う。当然、ドロドロした人間関係があったり、恩讐を越えての今現在があったりする。そうしたすべてをひっくるめて米良明久、高千穂明久、ザ・グレート・カブキの人生なのだ。
以前、テリー・ファンクに「この業界はタフな奴の世界だ。タフな奴しか生きていけない」と言われたことがあるが、カブキさんのプロレス人生はまさにその通りだと思う。高千穂時代や83年のカブキとしての凱旋当時から知る古くからのファンも、もしかしたら現役時代のカブキを知らない若いファンにも読んでいただきたい1冊だ。全33章のうち、いくつかタイトルを4抜粋して紹介しておくので、ぜひザ・グレート・カブキの人生に触れてみてください。
第1章=隠れ里伝承に包まれたミステリアスな俺の家系
第3章=リキ・パレスにあった「道場」という名の地獄
第6章=生意気な後輩は制裁すべし!
第10章=デトロイトで「ヨシノ・サト」に変身
第13章=1973年4月20日、日本プロレスが消滅
第16章=ミスター・サイト―&ミスター・サト
第18章=“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキ誕生
第19章=俺が各テリトリーで飽きられなかった理由
第21章=新日本プロレス副社長・坂口征二の誘惑
第22章=「受け身」と「ガチンコ」の重要性
第23章=天龍同盟と作り上げた「アメリカンプロレス」
第25章=「源ちゃん、俺も全日本プロレスにはいたくないんだよ」
第26章=俺が戦ってきた外国人トップレスラーたち
第28章=歪んだ人間関係が生み出した2つの事件
第30章=楽しかった反選手会同盟~平成維震軍時代
第32章=初めて足を踏み入れたインディーの世界
第33章=49歳最後の日、10カウントを聞きながら

ハッピーバースデー!

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 今日は百田光雄さんの63回目の誕生日。それに先がけて昨夜、新宿でサプライズのバースデー・パーティが催された。何がサプライズかと言うと…光雄さん本人には内緒で天龍さん、折原昌夫、天龍プロジェクトの嶋田紋奈代表が企画したもの。あらかじめ参加者はパーティー会場に集まり、天龍さんと折原が打合せということで光雄さんを会場に誘導した。光雄さんが入ってくるなり、参加者は「ハッピーバースデー!」と共にクラッカーで歓迎。さすがに光雄さんもビックリだ。
 昨年あたりは2011年での引退をほのめかしていた光雄さんだが、天龍プロジェクト、SAMSHで定期的にファイトすることで元気いっぱい。
「どこまで出来るかわからないけど、こうなったら70歳になっても現役で試合をしたいね。人間、鍛えれば、ここまで出来るんだっていうのを見せていきたいよ。そこまでやれれば、天上の父(力道山)も褒めてくれるかな」と光雄さん。トレーニングを欠かさず、体はガッチリしているし、何と言っても負けん気の強さは半端じゃない。このままプロレス道を邁進してください。改めて…誕生日、おめでとうございます!

Gスピリッツ最新号は橋本特集&ボック・インタビュー!

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 9月28日(水)発売のGスピリッツ第21号の表紙&主な内容を公開します。
【特集=橋本真也 爆殺の記憶】
<証言>
馳浩
天龍源一郎
AKIRA
ドン荒川
KENSO
永島勝司
山口日昇
【巻頭スペシャル=地獄の墓掘人は生きていた!】
独占キャッチ!衝撃の2万字インタビュー=ローラン・ボック
【特別企画】
木村政彦のプロレスラー時代=知られざる海外遠征の足跡
【連載】
実録・国際プロレス=和製カーペンティア 寺西勇
オーストラリアのプロレス史=カール・ゴッチに5回勝った男
キム・ドク インタビュー後編
ミル・マスカラスが「悪魔仮面」と呼ばれた時代=第4回
アリーバMEXCO=カルロフ・ラガルデ

全日本プロレスの今

 武藤・全日本から内田・全日本へ。武藤敬司から内田雅之氏に社長が交代したというだけでなく、ここにきてリング上も確実に新たな世界に変わりつつある。これまでは誰が三冠王者であろうが、誰が主役に座ろうが、全日本プロレス=武藤の世界だった。だが、徐々に武藤の匂いが薄れてきているのだ。
 それは馬場時代をひっくるめて全日本の過去・現在・未来のすべてを背負おうという諏訪魔が三冠王者として中央に構えていることが大きい。諏訪魔は10月23日の両国で四天王時代を知るノアの秋山準の挑戦を受けて、あの熱い90年代をも自分に取り込もうとしている。そして、その諏訪魔をさらに若い世代の真田聖也らが追う姿は、かつての超世代軍を思わせる。
 今日19日には昼間に後楽園ホールで興行が行われたが、メインのリングに立ったのは世界ジュニア王者のKAI。KAIは後楽園3大会連続でメインを務めたことになる。これも新しい時代の風景と言っていい。さらにKENSOは『TEAMビチッと!』を結成して独自の世界観でお客を楽しませているし、征矢学にしても大森隆男にワイルド・コントラ・ワイルドで噛みついて自分の存在感をアピールした。それぞれに新しい時代に向けて、自分の意思・主張で動き始めている。
 さて、この状況で注目したいのは武藤だ。このまま新たな時代に移行するのを歓迎して黙って見守るのか? それとも何らかのアクションを起こすのか? 武藤の匂いが薄れてきているからこそ、ここで武藤が動いたら、それは逆に大きなインパクトになるはず。どういう流れが生まれるにせよ、全日本は目が離せない魅力的な団体だ。

あと2ヵ月弱の“やり過ぎぶり”に注目!

 私が澤宗紀というプロレスラーの存在を知ったのは04年だっただろうか。SWSでリングアナを務めていた鳴海剛氏が立ち上げたrという団体に所属していたから名前だけは知っていたのだと思う。04年当時、私は日本スポーツ出版社の編集担当執行役員という立場で何とか会社を立て直そうとしていた時期で、GAORAの全日本プロレス中継解説以外はほとんどプロレス会場に顔を出せなかったし、一昨日も書いたようにこの年の9月15日付で退社するなど身辺がゴタゴタしていたので、プロレス界の細部の情報には明るくなかったのだ。
 年が明けて05年、新たにフリーとして週刊ゴングの仕事をするようになり、任されたのが増刊号のプロレス名鑑の編集。ここでランジェリー武藤の存在も知ったのだが、初めは澤宗紀=ランジェリー武藤とは思ってもみなかった。ところが週刊ゴングの取材記者が集めてくれた選手へのアンケートを見ると、2人の基本的なプロフィールはほぼ一緒。「ひょっとして、同一人物?」と思い、後楽園ホールで澤と会った時に「ランジェリー武藤だよね?」と聞いたら「はい、スミマセン(笑)」。これが澤との初めての会話だった。
 当初、澤宗紀とランジェリー武藤は別人格だったように思う。澤としてのバチバチ・ファイト、ランジェリーとしてのコミカルなファイトの振り幅の広さに感心したが、いつしか澤宗紀というひとりのレスラーにすべての魅力が集約されていった。これは凄いことだ。
 そんな澤は11月5日の新宿FACEにおけるバトラーツ解散興行の数日後に引退する。いつも元気で、大人げなくて、変態な澤だが、神経は細やかだし、頭も働く。「バトラーツ解散の日に引退しようとも思ったんですけど、その日に引退試合をやると話題がブレるので…」と客観的に分析出来るのだ。引退については…私は、澤に限らず誰が引退を表明した時でも「お疲れさまでした」しかない。結局、本当の理由は本人にしかわからないものだし、その人の人生の大きな決断だからだ。
 さて、昨日は後楽園ホールでゼロワンの天下一ジュニア準決勝&決勝戦。引退が決まっている澤にとって最後の参加。そして準決勝で横須賀享、決勝でフジタ“Jr”ハヤトを撃破して見事に優勝を飾った。
 享、ハヤト共に勝っても負けても澤とのリング上の時間をとても大事にしていたように見えた。特にバチバチとやり合って負けたハヤトは号泣。ハヤトは優勝した時の願い事としてゼロワンで自分のプロデュース興行をやってもらって、そこで澤の引退試合の相手を務めることを発表したかったという。それが叶わなかったことへの悔し涙でもあろうし、同時に天下一ジュニア決勝という大きな舞台で澤との最後のシングルマッチを思い切り戦えたという感涙だったと思う。
 ハヤトは試合後に「俺が“やり過ぎぐらいがちょうどいい”を引き継ぐ。みちのくでも他の他んでも、俺が“やり過ぎぐらいがちょうどいい”で臨みます」と言った。プロレス界という枠から見たら、澤は決して大きな存在ではないかもしれないが、こうして継承してくれる若いレスラーがいるということは、澤にとってはレスラー冥利に尽きるだろう。
 優勝した澤本人は努めて明るく普段通りに振る舞っていたが、もうひとり涙を堪えられなかったのは、願い事として引退試合の対戦相手に指名された日高郁人だ。
「こいつ、体ボロボロなんですよ。決勝戦見守りながら、こいつの心が折れないように檄飛ばすので一生懸命でした。俺が澤宗紀を、責任を持ってプロレス界から送り出します。後輩であり、弟のような男を先に送り出すのは複雑だけど、もう一度リングに上がりたいとか、そんな気持ちを2度と起こさないように精一杯、送り出します」と涙ながらに語った日高。そんな日高に「泣かないで」で声をかける澤の柔らかな表情が印象的だった。
 体のダメージは本人しかわからないもの。でもきっと澤は最後まで“やり過ぎぐらいがちょうどいい!”と全力で駆け抜けるに違いない。
「バトラーツの戦う営業、戦う広告塔としては、解散興行のチケットが立ち見以外完売になって退職前のひとつの仕事をクリアー出来ました。次の大仕事はバトラーツに所属したレスラー全員を解散興行に集めることです。みんな大人げなくて、仲が悪くて大変なんですけど、僕が必ずやってみせます。そして、その数日後、日高さんと引退試合をさせてもらいます」と澤。あと2ヵ月弱、澤の“やり過ぎぶり”を見届けよう!

乾杯!

 ダイアリーの再開に際して温かいコメントをいただき、ありがとうございました。Gスピリッツの情報については、編集部の意向に沿う形で来週初めぐらいから出していけると思います。
 さて、昨日はドラゴンゲートの後楽園大会。メインはYAMATOと戸澤陽のノーロープ&ノーDQマッチだった。ノーロープということはロープワークを使ったファイトが出来ないし、体でリングの大きさを把握していないと動けない。両者の基本的な技術が試される試合だったと言ってもいい。
 YAMATOはプロレス入り前に4年間、和術慧舟會に所属して『パンクラス・ゲート』でも試合経験があるだけに、この手の戦いは得意。元々が「どうやったら、技を極力使わないで面白い試合を作り上げられるか?」という考えの持ち主でもあり、私のお気に入りの選手のひとりだ。序盤は当然バックの取り合い、関節の取り合いと地味な攻防になり、やたらと「喧嘩をやれ!」という無粋な野次も飛んだが、顔面踏みつけ、アキレス腱固めなどの攻めはYAMATOの真骨頂だったと思う。
 一方の戸澤は、YAMATOに対応しつつ、ヒールとしての味をきっちりと発揮。スパナの使い方も巧かったし、最後にフォールを奪ったパッケージ・ジャーマンも、鉄板を隠しておいたキャンバスの上に叩きつけるという味な仕掛け。かつての戸澤塾、メタボリック・ブラザースというコミカルな時代を感じさせずに自己プロデュースしているのは立派だ。
 帰宅後は独立7周年を祝って、妻とシャンパンで乾杯! さあ、今日はゼロワンの後楽園大会…天下一ジュニアの決勝だ。

今日は独立記念日

 2004年の9月16日、ちょうど今頃の時間に千代田区神田駿河台の出版健保にいた。健康保険を任意継続に切り替えるためだった。それは日本スポーツ出版社を退社して、43歳にして無職になったから。野に放たれてから丸7年、今もこうしてプロレス業界で生きていることは感慨無量の一言に尽きる。毎年9月16日になると、心は04年の同じ日に帰り、また新たに頑張っていこうと思う。私にとっては初心に戻る独立記念日なのだ。
 考えてみると9月というのは私のキーポイントになっている月。5日は誕生日で、今年50歳を迎えた。そして07年9月5日には今の私の主戦場であるGスピリッツが創刊された。10日は私が辛い時期に温かく見守り続けてくれた母方の祖母の命日でもある。
 あれから丸7年経った今日、原稿を一本仕上げてドラゴンゲートの後楽園ホールに行く。当たり前の日常だが、つくづく幸せな日々を送っていることに感謝したい。
 さて、このダイアリーを2ヵ月以上も休んでいたことをお詫びします。多くの方々にご心配をおかけしました。実は7月下旬に転居、8月からこれまでの日々はGスピリッツ第21号の取材&原稿書き、その他、諸々の仕事に追われて更新する時間も気力もありませんでした。
 8月下旬、久々に馳浩に会った。彼は毎朝午前4時前後に起床して国会議員として多忙な毎日を送っているにもかかわらず、毎日、ブログを更新している。そのことを聞くと「プロレスラー時代に毎日練習していたのと同じですよ。朝起きて、ブログを書くことによって前日の復習をする。そしてその復習は今日の予習にもなるんです!」とキッパリ。いやあ、さすが馳センセ―は違う!
 ということで馳センセ―には敵いませんが、独立記念日を機にダイアリーを再開したいと思います。また、途中でプツッと途切れることもあると思いますが、懲りずにクリックしてください。今後ともよろしくお願いします。

天龍が「ダーッ!」

 昨日はアントニオ猪木酒場・新宿店で『天龍と飲もう!語ろう!』というイベントが開催され、私はトークショーを担当した。コアな天龍ファンに囲まれてテンパってしまったが、そこは天龍プロジェクト等の実況解説で御一緒させてもらっている山口雅史さんの巧みなリードのおかげで何とかまっとうできた…かな? 足を運んでくださったファンの皆さん、満足していただけましたか?
 さらに昨日は天龍さんの愛娘にして天龍プロの代表の紋奈さんの誕生日ということで父娘には内緒で誕生日のお祝いも。紋奈さんが生まれた当日に熊谷市民体育館で行われた天龍vsジプシー・ジョーのビデオもちょこっとだけ上映された。
 締めは天龍プロ恒例になった「エイ、エイ、オー!」かと思いきや、何と「1、2、3、ダーッ!」。天龍さんが「ダーッ!」をやるのは、猪木さんに勝った94年1・4東京ドーム以来か!? こういうセンスが天龍源一郎なのだ。
 御来場の皆さん、ありがとうございました。また機会があったら、楽しいイベントをやりましょう。その時は大いに盛り上がりましょう!

初めての麺ジャラスK!

 昨夜はGスピリッツへの取材協力のお礼も兼ねて、仲間3人と川田利明の『麺ジャラスK』へ。実は行くのは初めて。私の家からだと1時間半近くかかるため、これまで足を運ぶチャンスがなかったのだ。
 ビールや焼酎を飲みながら、きざみたくあん絶品ラー油がけ、冷やしトマト、インゲンのごま和え、麺ジャラス肉味噌キュウリ、イカゲソ揚げ醤油味、はさみで切り分けるジャンボ鶏ももから揚げ×2、カレーコロッケ、それから串の2本セット×2…などなど(あとはよく憶えていない)を注文。「注文してから出てくるまで遅い」という噂もあったが、タイミングよく次々に奥様が料理を運んでくださった。私はグルメライターでも食通でもないが、どれも本当にウマイ! 他の仲間も「オイシイね!」と言っていたから、やはりウマイのである。だからお酒も食も進むこと、進むこと。
 そしてシメはやっぱり店名にもなっている辛口味噌カレー麺の麺ジャラスK。「ひとりで一杯食べられるかな?」と言っていた仲間もペロリと完食。飲んだ後にこの辛さはちょうどいい。家から近ければしょっちゅう来るのにと素直に思った『麺ジャラスK』だった。
 川田は「ウチはラーメン屋じゃなくて居酒屋だから」と言うが、それだけに酒に合うおつまみメニューが充実。川田自身、酒が好きだし、プロレスラーとして日本全国を旅していろいろなものを食べてきたから、それが活かされているのだと思う。
 様々な料理を黙々と作る川田、そして一時も休まず料理を運ぶ奥様の姿には何だか感動すら覚えた。物事に真摯に取り組む川田の姿勢はリングから厨房に代わっても何ら変わらない。それが嬉しかった。まだまだ不慣れで大変だとは思うが、川田夫妻には本当に頑張ってほしいと思う。
 今後も機会があれば、何人かで行ってワイワイ飲み食いしたい! 皆さんも一度行ってみてください。オイシイよ!