石森太二、今もなおキープ・オン・ジャーニー!

13.0303.ishimori.jpg
 昨日は後楽園ホールの新日本プロレス『旗揚げ記念日』を途中で切り上げてニコニコプロレスチャンネルのスタジオへ。MC2回目となる生インタビューの今回のゲストは新GHCジュニア・ヘビー級王者の石森太二だった。
 石森と私にはヘンな縁があって、2004年9・9後楽園の闘龍門Xのファイナル興行が日本スポーツ出版社の人間としての公の場での最後の仕事だった。メインイベントのセーラーボーイズ(石森、佐藤秀&恵)とCTU(邪道&外道&竹村豪氏)のUWA世界6人タッグ戦の立会人を務めたのである。会社の経営権が変わるなかで私は9月16日付での退社を決めていた。だが経営陣交代は業界で話題になっていただけにその時点で退社することを伝えていた社外の人間はGAORA全日本プロレス中継のスタッフだけ。そして立会人の話をしてきたウルティモ・ドラゴンにも「実は…」と打ち明けると「最後の記念にいいじゃないですか。闘龍門Xも最後だし!」と笑っていた。
 そんな個人的な話はいいとして…昨日の生インタビューの大半は闘龍門と石森の黒歴史とも言えるアイドル・ユニットのセーラーボーイズ時代の話になってしまった。まず闘龍門については、そのシステム自体に個人的に興味があった。受講料はいくらなのか? 日本で半年間の基礎練習をしてからメキシコに送られるというカリキュラムの詳しい内容は? そしてウルティモはレスラーたちにどうやってキャラクター付けをしていたのか? などなど。
 石森の当初のキャラクターは19歳のスーパースター。そして、それが佐藤秀&恵とのアイドル・ユニットのセーラーボーイズにつながり、伝説の名曲(?)『キープ・オン・ジャーニー』が生まれる。ちなみにセーラーボーイズの計画を知らされたのは1カ月前。振付と歌詞は3日で覚えるドタバタだったという。ちなみに歌とダンスが一番うまかったのはケイだったという。それにしてもあのバラモン兄弟があのアイドルをやっていたというのは、いまさらながら驚きだ。
 石森のプロレス人生は山あり谷ありだった。04年7月に闘龍門はドラゴンゲートに変わり、メキシコに残された石森以下のメンバーは日本での活動の場を失った。石森はウルティモのブッキングで新日本に上がったが、それも05年春まで。以後、ドラゴンドア、全日本へのスポット参戦、ドラゴンドアからエルドラドへ…と流浪の旅を余儀なくされる。そうして大人の事情で振り回された石森は遂にウルティモとの決別を決意してノアへ。その後、ウルティモとは健介オフィスのリングで再会し、石森は涙した。ノア初参戦から7年、7度目の挑戦にしてGHCジュニア王座を奪取したが、その奪取した相手は闘龍門時代から節目で戦ってきた近藤修司。1・27大阪のタイトルマッチには2人だけにしかわからないドラマがあった。
 そして今、石森はノア・ジュニアを引っ張る立場になった。「今のノアも確かに大変ですけど…これまでいろいろなことに翻弄されて、いろいろなことがあったんで、今が一番幸せです。必ずノア・ジュニアを再建しますよ」と石森。闘龍門に始まり、様々な旅をしてきた石森だが、プロレスラーである限り旅路は続く。そう、ノアという定住地を見つけても…今もなお、高みを目指してキープ・オン・ジャーニーなのだ。
 このインタビューはタイムシフト公開中なので、ぜひニコニコプロレスチャンネルにアクセスしてみてください。写真は「キープ・オン・ジャーニー!」ポーズです。

「石森太二、今もなおキープ・オン・ジャーニー!」への1件のフィードバック

  1. 気が付けばウルティモ・ドラゴンの遺伝子を持った選手たちが日本のプロレス界の主役になっていますね。
    ノアはこれから正念場ですよね。
    ジュニアの体格であるKENTAがヘビーのトップに。
    ジュニア固有のカラーをどうやってアピールしていくか見物です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です