菊池孝さんに哀悼の意を表します

 プロレス評論家の菊池孝さんが9月1日午前4時46分にお亡くなりになりました。大阪新夕刊でプロレス取材を開始したのは1960年。半世紀以上もプロレスに携わり、生涯現役でした。
 私が初めてお付き合いさせていただいたのは月刊&別冊ゴングの大学生アルバイトだった32年前のこと。当時の重要な仕事のひとつに原稿取りというのがありました。今だったら原稿もパソコンでのやり取りが普通ですが、パソコンはおろか、まだFAXも普及していない時代でしたから、執筆者のもとへ原稿を受け取りに伺わないといけない。その際に執筆者の方々から聞かせていただく話が後々、自分の財産になるのです。初めて菊池さんのご自宅に伺った時は「国際プロレスのテレビ解説者の菊池さんだ!」とファン気分で密かに興奮していたことを思い出します。
 菊池さんは締め切りも原稿の分量もきっちり守り、万年筆で書いた文字も美しく、編集者にとっては最高の執筆者でした。当時、ハタチ前後の若輩者の私でしたが、ご自宅にお伺いすると「上がっていけよ」と自室に招いて夏は冷たいジュース、冬は温かいコーヒーを出していただき、さらに「どうぞ」とタバコをすすめられ、そして昔話をしてくださる。菊池さんの原稿取りは当時の私にとって楽しみな仕事でした。
 よく、「昔のプロレス記者はサムライだった」と言いますが、菊池さんはまさにサムライ。原稿が几帳面な一方で飲む&食うはレスラー顔負け。まず食事をして、クラブに飲みに行き、そこからカラオケに行ってガンガン歌い、明け方になると「そろそろ腹が減っただろ?」と焼肉屋さんへ。そして締めに朝ごはんの(?)ラーメンを食べるという菊池さんならではの黄金コースを体験させてもらったレスラー、マスコミ関係者は少なくないはずです。
 仕事に対する姿勢ももちろんサムライ。人当たりはソフトだけれども気骨ある人で、心によしとしないことは歯に衣着せずに口にも文章にもする人だったし、好き嫌いがハッキリしていて「○○と××の取材はしない!」というご自身の中でのルールを持った人でした。レスラーが記事にケチをつけてくると「そっちは戦うプロだが、こっちは見るプロ、書くプロなんだ!」という凛とした姿勢で相対していました。
 近年は体調がいいとは言えませんでしたが…それでも極力、会場に足を運ぶ。菊池さんが会場に足を運ぶなら、若い私が行かないわけにはいきません。その姿勢は04年9月からフリーになった私にとって鑑でした。それこそ「見るプロ」なら、なるべくナマで見る。それを背中で教えていただきました。68年から44年も様々な媒体で活動されてきた菊池さんは「フリーでも頑張ればやっていける」という道標になった人物です。プロレスにフリーライター、評論家というポジションを築いてくれた先駆者です。この業界も変わってきましたが、それを守るべく私も精進したいと思います。
 私はこの春から、監修=馬場元子さん、総合プロデュース=菊池さんという形で小学館から発行されているDVD付きマガジン『ジャイアント馬場 甦る16文キック』で一緒に仕事をさせてもらっていました。7月16日、小学館の会議室で9月14日に発売される第5巻(最終巻)のDVDに収録する馬場vsジン・キニスキーの伝説のインター戦(1967年8月14日=大阪球場)の映像を一緒にチェックしたのが菊池さんとお会いした最後になってしまいました。最後のお仕事を一緒にできて光栄です。これまでありがとうございました。合掌。