上田馬之助さんの思い出

 昨日、上田馬之助さんが亡くなった。享年71歳。昭和を彩った名レスラーがまたひとり、この世を去ってしまった。こうした時、どんなレスラーだったのか、どんな人物だったのか…取材を通しての思い出を書くことしかできない。
 私の中の上田さんの記憶は81年の夏に遡る。当時、ゴングで取材スタッフとしてアルバイトしていた大学2年生の私は、夏休みを利用して3週間のアメリカン・プロレスの旅に出た。上田さんにお会いしたのはテキサス州ウェイコのカブキさんの家だった。その日の朝、テキサス州ダラスに着いた私はカブキさんに電話。するとカブキさんは「試合までまだ時間があるから」と車で迎えに来てくれて、さらに家まで連れて行ってくれて日本食を御馳走してくれた。そのカブキさんの家に居候していたのが上田さんだった。
 当時の上田さんは新日本のレギュラー。81年は新日本と全日本の引き抜き合戦が繰り広げられていた年で、上田さんの盟友タイガー・ジェット・シンは7月に全日本に移籍したばかり。このタイミングで全日本所属のカブキさんの家に上田さんがいるというのはマズイ。最初、上田さんは「私がここにいることは記事にしないでよ」といきなりの若造記者の出現に不機嫌そうだったが、話をしているうちに受け入れてくれるようになり「日本の団体はガイジンを高いギャラで引き抜き合っているようじゃダメ。ここにいる高千穂(カブキさんのこと)とかね、実力があって頑張っている選手を上げていかなきゃ…」などと話してくれるようになった。そしてカブキさんの家から会場のスポータトリアムまでは上田さんの車に同乗させてもらい、2人で頭からバスタオルをすっぽりと被って、ファンに顔を見られないように会場入り。当時、上田さんは顔を黒くペイントしたテングー(天狗)というキャラクターで試合をしていたのだ。
 カブキさんはメイン、テングーは前座というのが当時の格付けだった。先に試合を終えて身支度していた上田さんが、大会終了後も「高千穂はまだ時間がかかるから…」と、車でグレイハウンド・バスのバス・ディポまで送ってくれた。
 約束通り、カブキさんの家にいたことを記事にしなかったが、上田さんは10月の『ジャイアント・シリーズ』に新日本から全日本へ。そして開幕戦の後楽園ホールの試合前、外国人控室のドアが開いて上田さんが顔を出した。私はアメリカでのお礼を言いたくて上田さんに近寄ろうしたが、その瞬間に凄い形相で竹刀を振り上げた上田さん。「寄るな!」という意味だ。他に記者の人たちがいたのに親しげに近寄ろうとした私が迂闊だった。新日本から全日本に転じ、改めて悪党として売っていく上田さんが、いきなり若い記者と仲良く話をしている姿を見せるわけにはいかない。20歳の私は上田馬之助のプロ意識を見せつけられた思いだった。
 実際にインタビューしたのはゴングが週刊化されたばかりの84年6月の1回だけ。マネージャーのH氏には「ゴングの取材は受けない!」と言われてしまった(その辺の人間関係や政治的背景は今もわからない)が、上田さん本人にお願いすると、快く取材を受けてくれたことを記憶している。
「天龍は遠慮せずにガンガンくるでしょ。あれは買える。それにトンガ(キング・ハク=ミング)もいい。ああいった伸びてる選手をもっともっとテレビに出さなきゃダメよ」「あんたたちマスコミは、やたらと内部事情を書きたてるでしょ。ゴタゴタなんかをファンに知らせる必要はないの。プロレスはリングでいかにお客さんを喜ばせるかなんだから、団体も含めてその点をもっと考えてもらいたい」「引き抜きとかで一番迷惑するのはお客さん。ガイジン招聘ルートを1本にすれば甘い汁を吸われないし、面白いレスリングを安く観られるはず」「プロレスOBをもうちょっと大切にすべき」「ゴタゴタのないプロレス界にするためだったら馬場だろうが、猪木だろうが、いつだって協力する気持ちはある」というようなことを語ってくれた。その当時の私には上田さんというレスラーは深すぎて、きちんと伝えきることができなかったのが心残りだ。
 今はただ、ご冥福をお祈りします。合掌。

「上田馬之助さんの思い出」への1件のフィードバック

  1. 僕も上田馬之助さん好きでした。晩年は反則殺法中心でしたが、山本小鉄さんが書籍の中で書かれてましたが、ストロングスタイルが出来るレスラーだったと思います。上田馬之助さんと言えば、猪木さんとの武道館でのデスマッチファイトが有名ですが、小佐野さんから見た上田馬之助さんのベストバウトはどの試合ですか?Gスピリッツで小鉄さんや上田馬之助さんの特集組んで欲しいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です