ジョー樋口さん、永眠

 本日午前5時38分、ジョー樋口さんが肺腺がんのため亡くなった。81歳だった。ジョーさんはGHCタイトル管理委員長として8月28日の後楽園ホールにおける金本浩二&タイガーマスクvs金丸義信&平柳玄藩のGHCジュニア・ヘビー級タッグ選手権までリングに立っていたが、それ以後は永源さんがタイトル管理委員として代理を務めていたので、この夏の異常な暑さで体調を崩されたのかなと少し心配はしていたが、まさか悲報を聞くことになるとは…。
 私にとってジョーさんは子供の頃にテレビで観ていた人だった。それがこの業界に入り、84年春に週刊ゴングの全日本担当記者になったことで、お付き合いさせてもらえるようになった。今から26年も前のことだが、当時すでに日本マット界の重鎮だったにもかかわらず、20代の若造記者の私に、ベテランの記者の方たちと分け隔てなく接してくれる優しい人だった。「昔のマスカラスはプライドが高くて参ったもんだったよ」とか「フリッツ(エリック)のオヤジは親分肌のいい人なんだ。本当は全日本に参加せずにフリッツのところに行くつもりだったんだよ」など、興味深い話をいろいろと聞かせていただいた。
 昔は私もリングサイドで写真を撮っていたが、その時に巧いレフェリーは観客やカメラマンの邪魔にならないように動いていることを知ったし、もう50代後半だったジョーさんが朝からモリモリとステーキを食べているのを見て「やっぱりアメリカンな人は違うなあ」と思ったものだ。ジョーさんはハワイの日系人のような雰囲気を持った人だった。全日本のグアム合宿の時に一緒にドッグレースに行ったのも懐かしい思い出である。
 仕事としては昨年2回、インタビューさせていただいた。メモを見ると2月15日にGスピリッツの取材。この時は1956年10月に行われた日本プロレス、山口道場、アジア・プロレス、東亜プロレスの4団体で行われた『ウェイト別日本選手権』についてのインタビューだった。ジョーさんは山口道場代表として日本ライトヘビー級王座決定トーナメントに出場し、決勝で後に国際プロレス代表となる吉原功に敗れている。予選は非公開だったこの伝説の大会についてお伺いすると同時にジョーさんがプロレス入りした動機など、貴重な話を聞かせていただいた。2回目の取材は9月10日。Numberの三沢光晴追悼号の取材で、この時は『社長としての三沢光晴』について伺っている。振り返ると日本マットの歴史そのもののようなジョーさんの証言をわずかでも世の中に出すことができたのは光栄だし、少しはジョーさんに恩返しが出来たのではないかと思いたい。
 会場に行くと売店の横に座って、いつもニコニコしていたジョーさん。ジョーさん、菊池孝さん、門馬忠雄さんに囲まれて喋っていると、皆さんに甘えていた新米時代に戻ったようで、何だかホッとするというか、心が和んだものだった。
 今は正直、言葉が見つかりません。ご冥福をお祈りいたします。

「ジョー樋口さん、永眠」への4件のフィードバック

  1. そんな…。
    信じたくはないですが、受け入れなくてはいけないのですよね…。
    どうか、安らかに眠ってください…。

  2. 小佐野さんにお伺いしたい事があります。
    過去のプロレス雑誌のバックナンバーを購入しようと思うのですが、バックナンバーの取り揃え豊富なお薦めのお店ありますか?老舗のアイドールは電話使われていませんになりますがどうなっているのでしょうか?

  3.  リング上で大会宣言などを読むとき年齢的にも痛々しく感じてましたが、実に残念です。
     ジョー樋口さんといえば外人レスラーが凶器攻撃をすると反対側をチェック、タッグでは、クレームを入れにきた日本人に対してコーナーに戻れなどと外人に有利な?レフリングで我が家族はブーイング等で古きよき時代のレフリーでした。でもそれは、我が家族はジョー樋口の手のひらで躍らせていたのですね。
     ジョー樋口さんは、日本プロレス当時から外人係をしていたので昭和の外人レスラーのいろいろな話をインタビューや本で知りたかったです。以前Gスピリッツで樋口さんのインタビュー記事のところで外人レスラーとのスナップ写真は、とてもよかったですね。
     ジョー樋口さんのご冥福をお祈りいたします。

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