イタリア革命第2章に幸あれ!

 昨日の新日本・両国大会でミラノ・コレクションA.T.が引退した。昨年9月に両目下直筋下斜麻痺の手術を行ったが、受け身を取ったり衝撃を受けると元に戻ってしまうということで1月15日の契約更改の席上で菅林社長に引退の意思を告げて昨日の引退式に至っのだ。
 ミラノは私にとっては特別なレスラーだった。それまでも試合は観ていたが、個人的に喋るようになったのは03年の夏頃。たまたま共通の知人がいた関係で知り合ったのだ。当時の私は日本スポーツ出版社の編集企画室長という立場で、基本的にはプロレスの取材はしていなかった。週刊ゴングの主に全日本プロレス取材の助っ人をする程度で、あとは個人的に会場に顔を出して浦島太郎にならないように努めていた時期である。取材対象ではないから気軽に付き合えた。
 一方のミラノはイタリアン・キャラばりばりの頃で、キザで高飛車な空気を発散していたが、実際に会った素顔の照井青年は素朴な好青年。リングでは見せない笑顔が印象的だったし、「実は米のメシが一番好きなんですよ! チーズは苦手で…」と、キャラとは正反対に鮭のおにぎりをバクバク食べていた。
 私はそんなミラノに人間として好感を持ったし、もちろんレスラーとしての資質、姿勢も好きだった。あの長い手足はリング栄えするし、プロレス頭をフル回転させた技の数々も天性のものを感じさせた。
 もっとも感心したことは闘龍門からドラゴンゲートになり、05年4月にフリーとしてアメリカに旅立った時のこと。すでにミラノの名前でアメリカのマニアにも知られた存在だったが「アメリカン・プロレスを一から学びたいんですよ」と授業料を払ってテキサス州サンアントニオのテキサス・レスリング・アカデミーに入学したのである。
思えばアニマル浜口ジムから始まり、FMWの練習生となってハヤブサの付き人をやった。その後のサラリーマンになったが、その間にも髙田道場、和術慧舟會で総合格闘技をやって、アマチュア・シュートの大会に出られるぐらいの時にメキシコに渡って闘龍門に入った。そしてルチャの次はアメリカのオールド・スクール…と、向上心に溢れた男なのだ。06年夏から新日本プロレスに上がるようになったが、そのことについても「ストロング・スタイルって純プロレスのスタイルではなく、新日本のスタイルだと思うんですよ。だから僕は“ストロング・スタイルのミラノ”になりたいんじゃなくて、それを学ぶことによってルチャ、アメリカのオールド・スクール、新日本のストロング・スタイルを自分なりにミックスさせた独自のスタイルを確立したいんです」と言っていた。
 今回の引退に当たってもミラノは前向きに新たな道に踏み出した。本当は失意のどん底だったと思うが、引退を決意してから不動産関係の国家試験に合格し、また東洋医学も学んでいて、かつての師匠ハヤブサを車イス生活から解放してあげることを第2の人生のスタートにしようとしている。
 全試合終了後、ミラノは売店でサイン会をしていた。個人的に話す機会がなかった私は帰り際に売店に立ち寄って「ミラノ、お疲れ様。また会おうね」と声をかけた。返ってきた笑顔は03年夏に初めて会った時と同じだった。
 イタリア革命第2章に幸あれ!

「イタリア革命第2章に幸あれ!」への3件のフィードバック

  1. 本当に残念..でも第二の人生、頑張って欲しいです..
    ミラノ選手、一番、好きですね..自分の中で..

  2. プロレス界の逸材がまた一人去ってしまった…。
    寂しい限りですが、第二の人生頑張って欲しいですね。

  3.  タイガーマスクの30周年パーティでザ・グレート・サスケが次回のGスピリッツの3月発売でタイガーマスクの特集と暴露してましたね。とても楽しみにしてます。奥が深い検証のこの雑誌いつも楽しみにしてますよ。

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