新人レスラーの死亡事故について

 コメント欄に『あるリングで練習生が亡くなられたようです。しかもそれは故人の練習中ではなく、ダブル・インパクトの練習台だったそうです。小佐野さんは今回の件をどう思われますか?』という書き込みがあった。
 私はこの件についてまったく知らなかったのでネットで調べてみたが、10月18日に我道会館の新人レスラー、由利大輔さんがダブル・インパクトの練習の実験台(受け手)になった際に頭から落下し、24日に亡くなったという。
 本当に胸が痛む事件である。まず亡くなられた由利さんのご冥福を祈るとともに、御遺族にお悔やみを申し上げます。
 さて、これを知った時の私の正直な感想は“プロレスごっこで事故が起こった”というものだった。その“プロレスごっこ”をやっていたのが、事もあろうにプロのレスラーを名乗る人たちであったということだ。
 だいたい、ダブル・インパクトの練習をやるということ自体が信じられない。しかも、その練習台にしたのが練習生期間4ヵ月、デビュー4ヵ月で2試合しかやっていない新人だったというのも信じがたい話である。この軽率さは、とてもプロの人たちとは思えない。本当に危険なプロレスごっこの世界だ。
 ダブル・インパクトをフィニッシュにしていたロード・ウォリアーズは相手の技量によって相手を落とす角度をちゃんと調節していた。それがプロの技である。相手に致命傷を負わせない技術と、自分が怪我をしないだけの頑丈な体と受け身の技術を持っていてこそ、初めてプロレスラーなのだ。果たしてダブル・インパクトをやった人たちは技を調節できるだけの技術を持っていたのか? 由利さんはちゃんと受け身をマスターしていたのか? 指導者は教わる人間の命を預かっているということを自覚していたのだろうか?
 かつてインディーのレスラーを教えていたこともあるカブキさんは「基本は受け身だよって教えてもカッコイイことばかりやりたがる。それで怪我をしちゃう。俺が行く前は誰が教えていたんだろうって思ったよ」とこぼしていた。
 ハッキリ言って、昔の学生プロレス(現状の学生プロレスは知らないので昔と限定させてもらう)の方が自覚があった。大日本プロレスのメンズ・テイオーが学プロ王者だった時代だから、もう20年ぐらい前だが、当時の学プロは「プロレスを馬鹿にしているのか?」と白い眼で見られながらも、彼らは「自分たちが事故を起こしたらプロレスに迷惑をかける」と一生懸命、受け身の技術を身に付けていた。そうした姿勢がわかったからジャイアント馬場さんも「本当はそんな真似をしてもらっては困るけれども、怪我されちゃ困るから、教えてやろう」と、メンズ・テイオーたちを直々に指導した。その教えが脈々と今も学プロに受け継がれているようだ。
 また大学を卒業後、就職しながらもプロのレスラーになったことについてテイオーは「僕にとってプロレスラーは凄くリスペクトすべき存在だったんですよ。昔はプロの敷居が高かったんで、僕は学生プロレスでよかったんです。でもインディーが出始めたら“いやいや、キミらより学生プロレスの方がレベルも技術も能力も全然凄いよ”って。そんな奴らがプロを名乗って学生プロレスを馬鹿にするのが凄く悔しかったんですよ」と言っていた。
 今、誰でもプロレスラーになれる。ライセンスもないから「私はプロレスラーです」と言ってしまえば、誰だってプロレスラーだ。本来なら、他のスポーツのようにしっかりとシステムを作り、ライセンス制を取り入れて当たり前なのだが、残念ながらそれは不可能な話。かつて私は日本スポーツ出版社で『プロレス名鑑』を製作していたが、日本に何団体あって、何人のレスラーがいるのか把握するのは不可能だった。
 そんな現状の中でプロレスラーと名乗る人たちに訴えたいのは「プロとしての最低限の技術を身につけてください」「少なくとも受け身が取れるようになるまで試合をしないでください」「プロレスラーを名乗る以上はプロレス界に対して責任を負っていることを自覚してください」という当たり前のこと。
 今、ノアを中心としたSEMは団体の枠を超えて若手たちのレベルアップの場になっている。DDTの選手たちはノアの道場に積極的に練習しに行っている。こうした活動が大きな輪になっていってくれることを望む。
 今回の事故に関わった人たちには人の命の尊さ、事の重大さをきちんと受け止め、御遺族に対して誠実な対応をすることを望むし、業界に対してどういう形で責任を取るのかを考え、行動で示してほしい。
 本当に痛ましくて悲しい事件である。

時空を超えた虎対決!そして恩讐の彼方に…

 超満員札止めの1894人。昨日のリアルジャパンプロレス後楽園ホール大会はチケットが完売したという。その目玉となったのは初代タイガーマスク(佐山聡)と2代目タイガーマスクの三沢光晴のタッグ対決。折りからの不況でプロレスの興行は苦戦を強いられているが、ファンの琴線に触れるカードを提供すれば、こうやってチケットを買って会場に足を運んでくれるということを痛感させられた。
 タイガーマスクとしては、2人の時代は当然ズレている。三沢が2代目に変身したのは初代の電撃引退から1年後だった。私が知る限り、2人の接点は2回だけ。1回目は83年1月4日、東京プリンスホテルにおける『昭和57年度プロレス大賞授賞式』。初代タイガーは昭和57年(82年)度のMVP&技能賞、三沢は新人賞を受賞したのだ。もう1回は88年4月2日、両国国技館で開催された『格闘技の祭典』。三沢はタイガーマスクとして馬場と組んでアブドーラ・ザ・ブッチャー&ジョージ・スコーランと対戦、佐山は素顔でシューティングのデモンストレーションを行った。そして佐山のデモンストレーション後に三沢タイガーがリングに招き入れられ、2人のツーショットが実現している。それから20年以上の月日が流れて今回のリング上での対戦となった。
 初代タイガーマスク&ウルティモ・ドラゴンvs三沢光晴&鈴木鼓太郎の中で行われた“時空を超えた夢の虎対決”は計2回。「まさか来るとは思わなかったね。効いたよ。目が覚めてよかったよ」と三沢が試合後に苦笑いした初代タイガーの先制の張り手で夢対決はスタート。これに三沢はエルボーで応え、一方の初代タイガーはミドルキックの連打からローリング・ソバット。体格的に優る三沢は体を密着させるとダブルリストロック投げに。再びスタンドになると、初代タイガーはヘッドロックからクルクルッと回転してレッグシザースに取るオリジナル・ムーブを披露。
 そして終盤、再び両雄が対峙。初代タイガーのタイガー・スープレックスは鼓太郎が、三沢のタイガー・ドライバーはドラゴンが阻止。結局、2人のコンタクトは初代タイガーのキックと三沢のエルボーの交換で終わった。試合自体は三沢がエメラルド・フロウジョンからランニング・エルボーという2代目タイガーではなく、三沢光晴のファイトでドラゴンを仕留めた。
 虎対決と言っても、三沢にとってタイガーマスクは遠い記憶の彼方。佐山は今もなおプロレスラーとしてはタイガーマスクとして戦っているが、三沢にとってのタイガーマスクは18年以上も昔のことなのだ。だから「タイガー対決が実現した感慨というのは全然ないね。(マスクを)被っていたのかなって感じだよね、もう」という言葉は素直な気持ちだろう。
 その一方では「時代の流れの中で今日になっちゃったのは悔しいけど、それは誰が悪いわけでもないし、仕方がないよ。やれただけでもよかったと思う」という言葉も出てきた。これまた素直な気持ちである。初代のキック、ローリング・ソバットについては「1発1発が急所に入ってくるんだよね。速いよ。見ていたら反応が間に合わないから」。そう、これを体感できただけでもよかったのだ。
 あまりにも強烈な初代のプレッシャーと戦い、初代にはないヘビー級に通用するオリジナルのタイガーマスクを創れと言われてもがいた2代目タイガーマスク時代。その6年間にひとつの決着をつけられたのでないか。
 この試合ではビル・ロビンソン、小林邦昭が立会人を務めたが、その他にも感慨深い顔触れが揃った。
旧UWFの社長だった浦田昇氏、新日本から電撃引退したタイガーを復帰させようとUWF設立に動きながら最終的には佐山と決別した新間寿氏、スーパータイガージムのインストラクターを務め、佐山が去った後にUWFに入った現スネークピット・ジャパン代表の宮戸優光。
 もし、これらの人たちが袂を分かつことなく物事が進んでいたら、日本プロレス界の歴史は確実に変わっていた。その昔の複雑な人間模様を知っているからこそ、恩讐を越えて同じ空間にいることに感慨を覚えた次第だ。

懐かしい人からの電話

 本当に1年が経つのは早い。気づいたら師も走る師走…12月に突入してしまった。この2週間はかなりハードだったが、17日に発売されるGスピリッツ第10号の私の原稿も一段落。ちなみに今回の特集は“昭和・全日本プロレス”で、当然ながら私の担当ページは多くなった。詳細は近々、Gスピリッツのホームページ、携帯公式サイトのモバイルGスピリッツで発表されると思うので、そちらをご覧いただきたい。
 12月に入る直前の11月30日には父の五十日祭を山梨の小佐野本家で執り行った。これで気持ちに一区切りをつけることができた。そして、その2日前に懐かしい人が電話をかけてきてくれた。阿修羅・原さんである。
 11月初旬に喪中欠礼のはがきを発送していたのだが「何もしてあげられなくて悪かったね」と、わざわざ電話してくれたのだ。
 94年10月の引退から14年。その間に原さんとお会いしたのは97年6月6日の後楽園ホールにおけるWARのレボリューション10周年記念大会(私は龍原砲トークショーの司会を務めた)、00年10月に週刊ゴング増刊号『THE天龍同盟』で諫早農業高校ラグビー部のコーチをしていた原さんを長崎まで訪ねた時、そして01年5月5日にFMW川崎球場大会で天龍vs冬木の特別レフェリーを務めた時の3回だけ。あとは年賀状のやりとり、年に1~2回程度の電話だが、こうして未だに気にかけてもらえることは、とても嬉しいことだ。
 87年6月から88年12月に原さんが失踪するまでの1年半、私は週刊ゴングの全日本プロレス担当記者という範疇を越えて夢中で龍原砲を追いかけた。90年5月に天龍さんがSWS旗揚げに参加してからは、何とかもう1回、龍原砲を復活させたいと思って原さんを探した。そして龍原砲復活までには、原さんと何とかコンタクトが取れる状況になってから1年の時間を要した。様々なことが頭に甦ってくる。
 こうした素晴らしい人たちの出会いが、私がこの仕事続けてきての大きな財産である。

好漢ピーター・アーツ

 先週はGAORA全日本中継と重なってしまったから、昨日は2週間ぶりのサムライTV『S-ARENA』だった。エメリヤーエンコ・ヒョードル、バダ・ハリに続いて、またまた大物ゲストが登場! 12・6横浜アリーナにおける『K-1ワールドGPファイナル2008』で実に10年ぶり、4度目の優勝を目指すピーター・アーツが来てくれたのだ。
 打ち合わせの部屋に入ってくるなり「コンバンワ」「ヨロシク」「ドウモ」「ハイ」と日本語を連発。もう15年以上も日本に来ているだけに、こちらが日本語で話していることも「何となくわかる」とのこと。まるでスタン・ハンセンみたいだ。
 そして気さく。打ち合わせ中、台本に載っていたTARUとヘイトの写真を見て「これ、WWEの選手?」とか「いつも名古屋で練習しているんだよ。東京は遊ぶにはいいところだけど、人々が忙しすぎて落ち着かないし、誘惑が多くて練習に集中できないんだ(苦笑)」「みんな、私のことをベテランと言うけど、あと5年は現役でやるつもりだよ」などど、雑談中もよく喋ってくれた。
 ヒョードルもそうだが、戦いの世界で頂点を極めた人は、リングを降りると気張ったり、気負ったところが微塵もない。常に穏やかな笑みをたたえ、闘争心を平常心でくるんでいるという感じか。それだけにリング上のファイターぶりも光るのである。やっぱり、こういう人を怒らせたら怖い!
 若いバダ・ハリも魅力的だったが、アーツの円熟味もまた魅力。
「トーナメント準々決勝のバダ・ハリ戦を突破出来れば、優勝できると思う。仮に私が負けたとしてもバダ・ハリは優勝できないよ。なぜなら私との試合で大きなダメージを負うはずだからね。まあ、あいつのビッグマウスをKOで封じて、4回目の優勝を果たすよ」とアーツ。これは世代闘争も絡んだ大勝負だ!