ヤッシーが辻本恭史になる時

 昨日は後楽園ホールでエルドラドの1周年興行。エルドラドの選手は、普段は他団体で活躍している。全日本でブードゥー・マーダーズとして大暴れしている近藤&ヤッシーしかり、DDTを主戦場にしている大鷲、ゼロワンMAXを主戦場にしている菅原しかり。だが、このホームリングに帰ってくると立ち位置が変わるから面白い。近藤はSUKIYAKI、ヤッシーは南京Fuck`nレスリング部、大鷲は猛獣惑星(アニマル・プラネッツ)、菅原はHELL DEMONSとユニットが4つに分かれて対抗しているのだ。
 他にもDDTで同じハワイ軍団のディック東郷とアントーニオ本多が6人タッグで激突したのは新鮮だったし、初参戦のTARUが「こんなしょうもない、くだらない団体はぶっ潰してやる!」と宣言していたから、エルドラドのリングでは、全日本では考えられないTARUと近藤、TARUとヤッシーの激突が見られるかもしれない。
 さて、昨日のお目当てはヤッシー。軍団解散をかけて近藤と激突したが、その2日後…つまり明日には愛知県体育館における『HEAT4』に参戦して初の総合格闘技戦を行なうのだ。
 本名の辻本恭史としてリングに上がったヤッシーは近藤と真っ向勝負。パンチ、キックの打撃、アマレス仕込みのタックル、マウント・ポジションからのパンチなどの格闘技仕様のファイトも披露。対する近藤もシビアに受けて立って、ボディへの膝蹴り、キックでボコボコにした。裏拳からジャーマン(ナイス・ジャマイカ)など、大善戦したヤッシーも最後は近藤のキングコング・ラリアットに轟沈。だが、ゴツゴツとしたいい試合だったと思う。
 そしていよいよ明日、総合格闘技。プロレス的にはちゃらけたキャラのヤッシーだが、総合の練習も積んできた。そして、今回の挑戦を「プロレス最弱の男の挑戦」と言いつつ、
「これは個人的なテーマでプロレスラーを代表して出るものではないです。ブラザー・ヤッシーで参戦させてもらいますが、気持ちは辻本恭史でいきます。また違った一面が出せれば…」
 と、記者会見でいつもとは違う丁寧な口調で喋っていたヤッシー。馳浩に憧れてプロレスラーになった辻本恭史は新たな挑戦の舞台に立つ。

夏がくれば思い出す…

 暑い!やっと梅雨が明けたと思ったら、連日30度を越す暑さだ。朝8時過ぎにタバコを買いに行く時点で汗が噴き出てくるのだから、この先が思いやられる。
 このジリジリと体を焼く太陽光線を浴びると、私は13年前の夏を思い出す。1994年8月1日、私は週刊ゴングの編集長になった。33歳の誕生日を1ヵ月後に控えた弱冠32歳。キャリア的には14年を数えていたが、若い編集長だったと思う。それは編集部をまとめるが大変だったはずだ。
 8月1日は月曜日…清水さんにとって編集長最後の本の校了日だった。みんなは大日本印刷に出張校正に行き、私は編集部に残って自分が手掛ける最初の号の進行表を作っていた。翌2日には週刊ゴング編集部とゴング格闘技編集部が日本スポーツ出版社の本社から近くの岡本ビルに引越し。そして3日の水曜日から新日本の『G1クライマックス』両国5連戦がスタートした。
 こういう仕事はどうしても夜型になってしまう。でも、私は編集部員が徹夜して会社に寝泊りするのは好きじゃなかった。だから、このG1期間は即日追い込みの土日以外は出社午後1時を命じ、前日の大会の作業をした上で両国に取材に行くスケジュールを組んだ。みんなも大変だっただろうが、私も必死だった。真夏のお昼は暑い。暑い日になると、当時の春日駅から編集部までの暑い道のりを思い出してしまうのだ。
 そうやって作った週刊ゴング526号。表紙は優勝者の蝶野で、帯とタイトルは目立つようにと蛍光オレンジを使った。そこから4年半、私の編集長生活は続いたのである。
 自分で書くのもなんだが、よく頑張ったと思う。あれがあったから今も頑張れる。真夏は私を初心に戻らせてくれる。
 

3年の月日

 DDT8・5後楽園大会では、私が期待していた諸橋晴也のKO-D無差別級王座戴冠は成らなかった。だが、サプライズがあった。04年9月にDDTからアパッチプロレス軍に移籍した佐々木貴が8月26日のディファ有明で3年ぶりにDDTマットに上がることが決定、それをアピールするために来場したのだ。
 佐々木は97年春から約7年半、DDTでファイトしていた。だが、冬木のWEWに出るようになり、大日本の伊東竜二がDDTに上がるようになってから「DDTにいたら井の中の蛙」「外に出たい!」という気持ちが抑えられなくなり、DDTを去った。そこには「どの団体に上がるにしてもメインを張れる選手になろう。DDTでメインを張っていて、他団体で第1試合だったら意味がない」というプライドがあった。だから大日本に上がるようになってからはメインを張るためにデスマッチにも進出し、今や頂点のBJWデスマッチ・ヘビー級王者に君臨している。
 一応、円満退団ということだったが、やはり佐々木と高木三四郎の間には溝があったようだ。だが、今回の3年ぶりの参戦は、佐々木にしてみれば「DDTを出てから自分を確立した」という自負があるからだろうし、高木もそんな佐々木を認めたからだろう。
 8・26ディファ有明のカードは佐々木貴&HARASHIMA&諸橋晴也とハワイ軍のKoo&プリンス・トーゴー&アントーニオ“ザ・ドラゴン”本多。
「3年ぶりのDDT、俺が全部持っていく!」と言う佐々木に対して、かつて教えを受けたHARASIMAは言った。「あの人がいない3年間、何をやってきたのか見せつけてやります。佐々木さんには負けませんよ!」
 ここで「何で?」と突っ込みを入れたかったが、その前に決めゼリフが出てしまった。
「それは…鍛えてるからだーっ!」
 ううっ、残念!実は私同様に突っ込みを入れたかったサムライの三田さん、週プロの鈴木彩乃ちゃんも悔しがっておりました。そう、HARASHIMAが何か言った後に「何で?」と突っ込みを入れると必ず「何でかって? それは鍛えてるからだーっ!」というハイテンションな決めセリフが出るので、マイク・パフォーマンスの時はみんなで突っ込んであげましょう(これ、DDTファンの間では常識)。
 まあ、それはともかくとして8・26ディファ有明では、それぞれの3年間のドラマが見られるはず。ただ、残念ながら、私はディファに行けない。何でかって? それは両国で全日本PPVの解説があるからだーっ!

DDTの新人

 昨日のDDT後楽園ホール大会で新人がデビューした。安部行洋…1975年7月5日、東京都江戸川区出身の22歳だ。マサ高梨相手にフォームがキレイなドロップキックを連発し、グランド・レスリングもキビキビしていて、いかにも新人という気持ちのいいファイトを見せてくれた。
 この安部、実は入門前までは格闘技経験はなかった。野球を11年やっていて、後輩たちにプロレス技をかけて嫌がられていたという。プロレス入りに当たって、DDTを選んだ理由は、
「週プロとかゴングの団体連絡先のコーナーがあるじゃないですか。とりあえず上から順に連絡していって片っ端からテストを受けようと思ったんですけど、たまたま一番上にあったのがDDTで、そうしたら一発でOKになりまして(笑)。それでどういう団体かわからなかったんで、ホームページを見たり、DVDを見たりしました。そうしたら年齢的に近い人がいっぱいいたし、これならやれると思って…」
 ウーン、現代っ子(これって死語?)だ。だが、デビューまでに2年かかった。左上腕骨折(今も腕にはパイプとボルトが入っている)など、怪我に悩まされたからだ。よくぞ挫折しないでデビューに漕ぎ着けたと思う。
「セコンドでいろいろな先輩たちの試合を観ることができたので、苦ではなかったです。ようやくデビューできたんで、この団体で目立てる選手になりたいです。目標は飯伏さん。すべてにおいて凄いと思います。そういうレスラーになりたいです」
 デビュー戦の相手を務めた高梨にしても、最初は闘龍門に入ってメキシコに行き、途中で帰国してDDTに入り直すなど、デビューまで時間がかかった選手。それだけに安部に対して思うところがあるようだ。
「自分も時間がかかりましたから、同じような気持ちで嬉しかったですね。でも、このデビューからがスタート。DDTはいろいろありますから、悩むこともあると思いますけど、頑張ってほしいですね」
 そう、本当にここからがスタート。様々な要素を持ったDDTの中で安部がどんなレスラーに成長していくのか、見ていきたい。

再会ドラマ

 昨日のゼロワンMAX『火祭り優勝戦』は熱かった。カードは昨年と同じ田中将斗VS崔領二。肩の怪我を克服し、肉体改造もして連覇を達成した将斗に拍手を送りたい。「火祭りは熱いと言われるけど、毎シリーズ、地方に行っても、この暑さを持続させなきゃいけない」という田中の言葉は覇者にふさわしい言葉だった。
 さて、この優勝戦とは別に私が個人的に注目していたのはセミで組まれたジュニア・スペシャル・タッグマッチの藤田ミノル&菅原拓也VSディック東郷&望月。急遽、藤田サイドに澤宗紀、東郷サイドに高岩竜一が入って6人タッグマッチになったが、注目ポイントはエルドラドの菅原とドラゴンゲートの望月が相まみえたことだ。
 エルドラドはドラゴンゲートから分かれて出来た団体。この2団体が同じリングに上がることは有り得ないことだった。そしてモッチーと菅原にもドラマがある。
 2004年1月31日、デビュー10周年を迎えたモッチーは「ヒールを極める」として、当時、闘龍門で“はぐれ軍団”として活動していた近藤修司、ヤッシー、大鷲透、高木省吾と合体してヒール・ユニット『悪冠一色』を結成した。さらにモッチーは闘龍門最強を決める『エル・ヌメロ・ウノ』公式戦で対戦した菅原に「キャリア10年でこんなに追い込まれたのは初めて。ぜひ、ウチに欲しい!」と菅原にラブコールを送った。当時の菅原はヘンリー・Ⅲ・菅原なるリングネームでアンソニー・W・森とロイヤル・ブラザーズを結成していたが、このモッチーのラブコールに応えて、3月に本名に戻って悪冠一色入りしたのだ。
 その後、モッチーと近藤がリーダー問題で揉めて6月にモッチーは悪冠一色を脱退。7月5日に闘龍門はドラゴンゲートとなり、2004年12月31日付で「素行不良及び職務怠慢」という理由から悪冠一色のメンバー5人全員が解雇。そして現在に至っている。そうしたことを踏まえての2年7ヵ月ぶりの再会だった。
 最初は強く意識していた2人。試合中の正式なコンタクトは1回きりだったが、6人タッグの流れの中で自然と攻防が生まれた。
「久々に見る奴がいたね。始まる前まではいろいろな想いもあったけど、リングで戦ったら、それでもういいでしょう。あいつも頑張っているようだし、お互いに頑張ればいい。ただし団体としては、お前らに抜かれないよということですよ」(モッチー)
 モッチーは天下一ジュニアへの参戦を表明した。当然、菅原も出場するだろうから、04年3・7本川越以来の一騎打ちが実現するだろう。ここで菅原は3年近くやってきたことを望月にすべてぶつければいい。人間関係というのは当事者にしかわからず、他人が入る余地はないものだが、こうしてリング上で体と心をぶつけ合える状況になったことは、傍目からも嬉しい限りだ。
 

夏といえば…

 今日から8月。そろそろ梅雨明けしそうだし、いよいよ夏本番だ。夏といえば、やっぱり海! ああ、海に行きたい。ビーチに寝転がって太陽光線を浴びたい。ワイキキ周辺だったらフォート・デ・ルッシー・ビーチ、浜が広いヒルトン・ハワイアンビレッジ前のデューク・カナハモク・ビーチ、ワイキキが一望できるアラモアナ公園のマジック・アイランド、ノースショアのワイメア・ビーチパークもいいなあ。他島だったらハワイ島コナのキンカメ・ホテル前の白砂の小さなビーチ、カウアイ島のポイプ・ビーチがいい! などと夢想したところで、夏休み期間はハワイに行くには高いし、そんな時間もない。
 というわけで、7月最終日となった昨日は船の科学館のプールへ。デッキチェアが1000円、生ビールが500円…などなどと、結構お金がかかるのだ。でも、意外に人が少なかったし、ちょっとしたリゾート気分を味わえたので、今年の夏はこれで我慢するか。
 まあ、個人的なことをツラツラと書いていても面白くないだろうから、強引にレスラーとプールのよもやま話でも書こう。
①1976年10月、相撲からプロレスに転向した天龍さんは馬場さんに連れられてハワイへ。馬場さんのコンドミニアムにあるプールでドロップキックの練習をしていた。ようやくコツが掴めて、夢中になってやっていると、馬場さんが「おーい、天龍。もう、おしまい。飛び込みは駄目だって管理人さんに怒られちゃったよ!」。これは有名な話だよね。
②1987年4月、私は全日本を離脱した長州軍団のサイパン合宿に同行した。撮影のため、マニャガハ島に渡ったのはいいが、長州は「暑い! 俺は帰る!」と、馳を連れて、勝手に他の観光客の船に乗って帰ってしまった。私たちは2時間待って迎えにきた船で戻ったが、その途中で海から「ヤッホー!」とカン高い声が! 振り返ると、それはナンパしたビキニ女性とウインド・サーフィンを楽しむ馳クンだった。
③1991年1月、SWSのハワイ合宿。天龍さんとカブキさんはWWE視察で途中から合流したが、天龍さんはなぜかマスコミとの接触を避けていた。「天龍の写真がなければ記事にならない」と危機感を募らせたマスコミ陣は、ある日、ビーチを歩いていた天龍さんの付人の折原昌夫を尾行。すると…天龍さんがフォート・デ・ルッシー・ビーチで日光浴をしているのを発見。 マスコミに見つかってしまった天龍さんは、取材用の写真と折原への制裁を兼ねて(?)、海の中でリフトアップ・スラム、投げっ放しパワーボム!
 まあ、こんなところです。今月はちょっと忙しくなるので、更新のペースが遅くなるかもしれませんが、ダイアリーをよろしく!